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2014年9月

2014年9月30日 (火)

ねこ塚と村人の温情

http://www.pta-yokohama.gr.jp/folklore

リンク先の「ねこ塚と村人の温情」を読んで、んん? と首をかしげてしまった。
民話にケチをつけるつもりはないのだが、ここは、猫より犬の方がふさわしいのではないか。昔から、犬は人に憑き、猫は家に憑くというし。
犬には犬の、猫には猫の固有のイメージがある。
「イメージ」とは何か? それは、多くを語らずして読み手にある共通した傾向の「物語」を読み取らせる作用のこと、といえるのではないか。
たとえば渋谷のハチ公が忠犬でなく“忠猫”だったら、やはりちょっとどうかと思う。

2014年9月27日 (土)

タダほど高いものはない

チューリップの解散コンサートを、大学時代、札幌厚生年金会館(だったと思う)で見たのだった。
ちょうど芝居の稽古が休みになったので、当日券売り場の列に並んだ。
すると見知らぬ女性に肩を叩かれた。知り合いが来られなくなったのでチケットが余っているという。
あー、ダフ屋か。
と思ったら、お金はいらないという。
いよいよ怪しい。絶対何か裏がある。タダほど高いものはない。
だが私は賭に出た。
わりといい席でコンサートを見、終演後は一目散に逃げ帰った。
けれど、べつに逃げ帰る必要もなかったのだろう。彼女は純粋にチケットを無駄にしたくなかっただけなのだ。きっと。
でも、だったらせめて正規の値段の半額くらいを請求してくれていたら、と思う。
演奏中も、次に来たるべき災いが気になって、ぜんぜんステージに集中できなかった。

2014年9月25日 (木)

アンサンブル

芝居というものはアンサンブル。とくにいわゆる「関係性の演劇」とよばれるジャンルの芝居においてはこれが大事で、しばしば野球に喩えられる。
ランナーをホームに帰すためにはバントや、ときに犠牲フライも必要。常にホームランを打ちに行けばいいというもんではない。打ったところでそんな試合は単調でつまらないものになるだろう。
「作戦」は監督がサインを出すが、単なるヒラメキや「好み」で決めるのではない。舞台を見つめつつ戯曲の要請に耳を澄ますこと。それが「演出」という仕事の本質である。少なくとも私はそう考えている。

2014年9月24日 (水)

補助線

あらかじめ定めた点と点の間に線を引くのではないのだ。
おびただしい「補助線」を消し込んで最適な一本を選び取ること。
創作ってそういうもん。

2014年9月22日 (月)

思考/言葉

若い内にたくさん本を読め、という紋切り型の説教を、私は今、断固支持する。
そうしてこなかった私の後悔から言うのである。
教養主義的な意味で言ってんじゃない。「思考」という行為が「言葉」を使ってされる以上、貧相な言葉の組み合わせは必然的に陳腐な思考しか生まない。創作の現場に身を置くことでそのことを実感しているからだ。

演技

テクストにより相対化された自己を再びテクストに結び直す。
演技するとは、いわば、そういうこと。
なのでウチではいつも立ち稽古の終盤に一度、テーブル稽古に戻ることにしている。

勉強はしといたほうがいい

母校(高校)の進学状況を目にする機会があったのだけど、凋落ぶりが凄まじい。ちょっとびっくり。もはや「進学校」と呼ぶのを躊躇するレベルじゃないか。学区制廃止(になったんだよね?)の影響なのだろうか? デキるやつはみんな前橋、高崎に行っちゃうってこと?

むろん〈いい大学〉に行けばいいってもんじゃない。人生、ほかに選択肢はいくらでもある。そんなことはわかりきっている。学歴と頭の良し悪しに相関関係が希薄なことは、東大卒の鳩山由紀夫や東工大卒の菅直人の醜態を見れば明らかだけど、〈逆も真なり〉とはならない。つまり学問が人の頭を悪くするのではなくて(アタリマエだ)、バカが知識を詰め込んでも、勉強のできるバカができあがるだけ、ということだ。

そもそも学問は必ずしも有用性に回収されるべき性格のものではない。これはすべての芸術に対しても同じことがいえる。
いずれにせよ勉強はしといたほうがいい。
自分のことを棚に上げ、こういうステレオタイプの説教をするのは年取った証拠だけれど、年取ると、痛切にそう思うのもまた事実なのだ。

井の中の蛙

「井の中の蛙大海を知らず」というけれど、大海の魚は井戸の中のことを知らない。
あなたが知っていて私が知らないことがあるように、私が知っていてあなたが知らないことがある。それだけだ。

遠近法

私と同じマンションに住むAさんはとても几帳面な人。いつもきちんとした身なりをしているし、部屋はモデルルームみたいに片づいている。

そんなAさんが何かの用事で我が家を訪ねてきたという。
私が留守にしていたのでそのまま帰ったようだが、私が「おや?」と首を傾げたのは、帰宅したとき、玄関ポーチの門扉が開けっ放しになっていたからだ。

もしもこれが芝居ならば、「Aさんはそういうキャラじゃない。キチンと門扉を閉めて帰るハズだ」とダメ出しするとこだ。
しかしかように現実というものは、しばしば「らしくない」ものである。

現実と虚構とでは、パースペクティブ=遠近法が異なるのである。
なぜなら「虚構」は「現実」と異なり、常に作者の恣意的な選択が前提とされているからだ。〈常に作者の恣意的な選択が前提とされている〉ことを、作者は常に前提としなければならない。

ゆえに、もしも作品中にAさんを登場させた場合、「門扉を開けっ放しにした」という“実際”のエピソードにこだわることは、たいてい、ほとんど意味がない。

文体

「文体」は、描出せんとする作品の世界観と不可分の関係にある。
たとえば、一般的な日本人は三島の戯曲のようには論理的に会話をしない。むしろ話の噛み合わぬままなんとなく話題が進行し、最終的に収まるところには収まる。
この日常の「空気」はあの文体では描写できないのだ。

2014年9月21日 (日)

舞台は役者のもの

芝居は8割がホンという「通説」がある。ホンがダメなら芝居もたかが知れてる、というのは頷けるが、演技のダメさをホンが補うなんてことは、まず、ない。なぜならホンが前景化し、役者が戯曲の“解説者”に成り下がってる芝居なんぞ、芝居としての価値がないからだ。
ホンはもとより、演出も、音響も照明も、すべてのスタッフワークは最終的に「演技」に収斂される。その意味において、舞台は役者のものなのだ。

関係性

無関心はいけないことだ、と言われるけれど、そしてある局面においては確かにそのとおりなのだろうけれど、通俗道徳めいたその命題は、常に真実であるわけじゃない。関心持った結果が相手の足を引っ張ることなら、無関心でいてくれた方がよほどマシというものだ。
「可愛さ余って憎さ百倍」というけれど、それは確かにそうなのであって、他人の幸福を願うという行為は、ひとたび状況がひっくり返れば、相手の不幸を願うことに繋がる。醜悪なことだとは思うけれど、実際、この世の中で、それはしばしば起こりうる。
そうした「関係性」の現実から目をそらす者に、少なくとも劇を書く資格はない。

2014年9月20日 (土)

葬儀

汽車の窓から見るポプラや白樺の葉が風を受けて白く光るのがいかにも涼しげで、ああ、私が大学時代を過ごした頃と一緒だと思われるが、十数年ぶりにいざ札幌駅に降り立つと、駅の面構えをはじめ、すべてがあの頃とは大きく様変わりしている。

2008年の夏、義母の葬儀で札幌に行った。
享年77。晩年は常に死の予感と共にあった義母であるが、にもかかわらず、やはり死は唐突に訪れる。苦しまずに逝ったというのが不幸中の幸いであった。

葬儀は札幌にある妻の実家近くの斎場で行われた。
葬儀屋の担当者がちゃんとした人でよかった。こうした儀式は素人にはわからないことが多くて心細いから、頼りになってありがたい。
祭壇には、故人が生前受賞した勲七等宝冠賞の賞状が飾られた。棺を斎場に運ぶ前、妻の実家で、納棺師の仕事をはじめて見た。

以前、私は祖父二人と祖母一人の葬儀に出ているが、私が到着したときには、皆すでに棺に収まっていた。いや、母方の祖父は違ったかも知れない。子供の私は、叔父たちが隣室で納棺する気配を襖を隔てて感じていたような気もする。しかし、なにしろ小学校3年のときの記憶だから、曖昧で自信がない。

 

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We Get Requests

大学時代の一時期、週一くらいのペースで、札幌のタワーレコード、シスコレコードとハシゴして、最後、当時「東映」の地下にあった「ジャマイカ」というジャズ喫茶に立ち寄るのが、私の行動パターンだった。

そのジャマイカで、オスカーピーターソントリオの『We Get Requests』を聞き、すぐにタワーレコードで買ったのだった。
ジャマイカは、北大通りの床屋の主人に勧められたと記憶する。
「サークルには何に入るつもりなのか?」と床屋の主人に聞かれたので、「ジャズ研」と答えたら、当時すでに老舗だったそのジャズ喫茶を教えてくれたのだった。

実際、ジャズ研には入ったのだ。私の演奏レベルが低すぎて、2ヶ月くらいで辞めたけど。
しかしそもそもジャズ研に入ろうと思ったきっかけが、この『We Get Requests』だったのだ。すると、ジャズ研に入るつもりでいた「床屋」の時点ですでに、私はこのレコードをジャマイカで聴いているはずで、時系列の辻褄が合わない。

2014年9月19日 (金)

欺瞞の構造

原発事故に関し、東電の対応に問題がなかったなどとはいわない。だが東電を「完全悪」とし、何でもかんでも叩けばOKという思考停止した「正義感」は、むしろ問題の本質を隠蔽してしまうし、現実的な対応を妨げる。それは今、問題とされている、朝日新聞的欺瞞の構造と同一だ。

2014年9月16日 (火)

Promise and the Monster『Red Tide』

2014年9月15日 (月)

白ける力

海外の某作家について調べ物をするうち、おそらく日本で唯一、一般にもその名が知られている戯曲賞である「岸田國士戯曲賞」の、2004年の選評にたまたまたどり着いた。
選考委員の岩松了氏はこう言っている。

「例えば、それらしいことを言う主人公、そのバカさ加減、ここに思いを至らしめるところに、演劇の、あるいはその主人公の救いはあると思うのだが、思いそこに至らず、自分の劇世界に酔い、「どうだ、いい台詞だろう」と自慢顔している劇作家の姿を想像することは、いかにもつらい。」

私も劇作家の端くれとして肝に銘じたいものだ。 

「台詞は、作家の頭脳が産み出すものではなく、見られるさだめにある人間の肉体を通した作家の劇精神が発する。」

「どんなに観客が笑おうと、泣こうと、その観客席の一番うしろの席に、いつも表情をかえずに舞台を観ている人間がいる。その人間を想像しつつ書くことが劇作家のつとめだと私は思っている。言うなれば“白ける力”これが劇を風化させないために必要だろう。 」

いいこと言うなあ!

朝日新聞 従軍慰安婦 捏造記事撤回問題 徹底討論 2014/08/09 ウェークアップ!

朝日の入社試験というのは、お勉強だけできるバカな偽善者を選抜する方針でもあるのだろうか?
くだんの問題に対する批判を受け、この動画に登場する元朝日の記者のトンチンカンな発言や、現役の朝日記者がする数々の厚顔無恥なツイートなどを見るにつけ、なるほどああしたデタラメな記事、つまりいかにも朝日らしい紙面ができあがるのも納得がいく。

正義感

「正義感」といえば聞こえはいいが、単にプラグマチックな思考態度を欠いた、単細胞の自己正当化。40歳越えてこんなザマでは一生バカをやるしかない。

2014年9月12日 (金)

報道

痴漢の冤罪によって他人の人生を台無しにしておきながら、「痴漢が卑劣な犯罪であることには違い有りません」などという理屈により、己のついてきたウソが正当化できると思ってる「報道」っていったい何なのか?

2014年9月11日 (木)

仙川

今週いっぱい仙川で稽古。
旗揚げが、せんがわ劇場だったので、わりと土地勘がある。
そのためか、なんか落ち着く。「地元」って感じがする。

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2014年9月 7日 (日)

向ヶ丘遊園

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向ヶ丘遊園(駅下車)の施設で稽古だったので、稽古前に、駅北口の商店街にある「登喜和屋」で蕎麦を食う。
何の変哲もない蕎麦屋なのだけど、けっこう美味しい。
昔、駅南口にも美味い蕎麦屋があったのだけど、いつのまにかコンビニに変わってしまった。残念。
そもそもなんで「向ヶ丘遊園」というかといえば、かつてそういう遊園地があったのだ。(2002年に閉園)。
駅の南口にモノレールがあって、終点が向ヶ丘遊園。今、「藤子・F・不二雄ミュージアム」のあるあたり。

 https://www.youtube.com/watch?v=BYG0ox9lqBw

2014年9月 6日 (土)

銀星倶楽部

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ペヨトル工房が刊行していたサブカル雑誌。その6号、「ノイズ特集」は、そもそもノイズミュージックにかんする資料そのものがあまりない(らしい)ので、結構貴重な一冊である(らしい)。
 

ノイズミュージックとは何か?

伝統的な音楽的常識からは楽器と見なされないものを楽器や音源として使用し、楽曲を構成していく音楽。その名前自体がこのジャンルの特徴を簡潔に言い表している。リズムや旋律は完全に無視されるので、当然音響作曲法により構成される。(Wikipedia)

音楽とは、音の「秩序」である。ドレミの西欧的スケールから逃れても、そこにはまたべつの「秩序」が待っている。「ここではないどこか」は、そこに辿り着いたとたん、もはや「どこか」じゃなくて新たな「ここ」になってしまう。
それに抗う前衛的な試みが、「ノイズ」ということになるのかもしれない。
だが、いわゆる「ノイズミュージック」以前にもそうした試みはされてきた。たとえば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、ステージに登場した演奏者が、何も演奏することなくステージを去る「曲」だ。
「無音」というノイズ。

http://www.youtube.com/watch?v=gN2zcLBr_VM&feature=player_embedded

2014年9月 5日 (金)

足のサイズ

たとえば登場人物Aの足のサイズをどうやって観客に知らせるか。

A(独白)「私の足のサイズは23です」

あまりにも単刀直入な「説明」。

B「Aって足のサイズいくつだっけ?」
A「23よ」

ダイアローグの体裁を採ってるだけマシにも見えるが、実は独白よりタチが悪い、と私は思う。
私だったら、せめて、こうする。

C「いらっしゃいませ。よかったら履いてみてください」
B「これなんか可愛いんじゃね?」
A「うん」(靴を履く)
C「いかがですか?」
A「うーん、ちょっと小さいみたい」
B「もうひとつ、上のサイズ、ありますか?」
C「いくつでしょう?」
A「23」
C「少々お待ちください」

これくらいやってはじめて「描写」といえるんではないか?
Cは靴屋の店員らしいと、わかるだろう。
では、AとBの関係は?
恋人同士かもしれないし、兄妹かもしれない。いずれにせよ私はそれをあらかじめ決めて書いていない。書いてしまってから二人の関係についてあれこれ想像を巡らせるのだ。
すべてがそうだとは言わないが、かようにテクストが作者をして登場人物の関係性を決定せしめる、ということはしばしばありうる。
「書かされる」というのは、そういうこと。

福島浜通りの現状:敵は放射線ではない

福島の放射能は怖い。そのようにおっしゃる方々の多くは、(一部の明らかな悪意は別として)心の底から福島に住む子供たちを心配されているのだと思います。それだけではなく、避難区域の設定も、避難指示も、甲状腺スクリーニングも、そのどこにも「悪意」は存在しない。私たちはその事をもっと深刻に考えなくてはいけないのではないでしょうか。

確かにそうなのだろう、とは思う。
しかし震災から何年経っている? 「動機の純粋性」を忖度してやる時期はとうに過ぎた。学ばぬものは永遠に学ばぬのだ、と私には思えてしょうがない。これは「情報量」の問題じゃないのだ、ということを私はこの三年で学んだ。

彼らは、いわばワイドショウ的な「正義」に慣れ親しみすぎている。それを左翼イデオロギーが後押しする。だから物事を単純な善悪の二分法でしか捉えることができず、今そこにあるリスクを定量的に比較することの意味を(積極的に)理解しない。

現に上記の記事にも、ゼロリスク原理主義ともでいうべき「放射脳」が、実にトンチンカンな「反対意見」のコメントを寄せ、それに多くの「いいね」がされるのだ。いまだに!
もう、ほとほと呆れ果ててしまう。いくらなんでも頭が悪すぎる。 「若者の学力低下」とか言ってる場合じゃない。

 

http://agora-web.jp/archives/1611061.html?utm_source=SNS_20140904

2014年9月 2日 (火)

正当化

好き/嫌い、あるいは、快/不快。
そういう自分の価値観あるいは感情を表明するのに、なぜいちいちモラルによって「裏付け」し、社会正義の文脈で「正当化」しないと気が済まないのか?

拙作の戯曲に登場する人物たちは、みんなどこか「おバカ」さんばかりだ。
しかし私は彼らを愛している。
それは〈私が書いた〉という自己愛ではなく、彼らが上記のような「裏付け」「正当化」をしないからだ。

正当化したがる人物を私は愛せない。
愛せない人物を自作に登場させることはできない。
仮に作品に作者のメッセージが含まれているとしたら、そういうことだ。

世代論

世代論なんてもののはたいてい、己の過去の(積極的な)忘却と、同世代への観察眼の欠如に支えられている。
オッサンオバサンが「最近の若者は」と愚痴るとき、自分が若い頃のことを棚上げにするから説得力がないし、そもそも昔の若者一般に共通した価値観などというものは、どこを探したってありはしないのだ。

2014年9月 1日 (月)

パターン

30歳の時、私は「温室の花」という戯曲を書いた。
劇中、登場人物の一人が、およそ次のようなことをつぶやく。

「おまえは橋の下で拾った子なのだ」という、よくある親の悪い冗談に、茫漠とした不安と寂しさを覚えた。「血縁」などという概念すら持たぬ子供であったのに、なぜ、そんな気持ちになったのだろう?

その答を、私は十数年後に児童劇の現場で得たように思う。

幼児の観客にいちばん驚かされたのは、たとえばオオカミが「悪」のアイコンであることを、劇中でさしたる説明がなくとも、即座に察知することだ。
それは俗にいう、子供の「純粋さ」や「感受性の豊かさ」による「直感」などというものでは決して、ない。
では、いかなる理由によるものか?
子供は子供なりに「期待の地平」(H・R・ヤウス)を、すでに持っているということだ。つまり、物語のパターンやキャラクターの造形がこの場で意味するところを、熟知している。

考えてみれば、そりゃそうなのだ。彼らは日頃、絵本やゲームや観劇を通じて、我々オトナより、遥かに多くの子供向けの物語に慣れ親しんでいるのだから。
そのことを、つい我々は忘れてしまう。

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