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2014年8月

2014年8月31日 (日)

ブルドーザーデモ

アンポトーソーに対する何のソーカツもなく、むしろそれへのセンチメンタリズムをおのがカツドーの根拠とする。そんな阿呆が一定数いることは知っているし、いたってべつにかまやしないが、税金で食っている国会議員となりゃ話は別だ。
民主党の某議員は〈安倍政権が「未来に対する犯罪」を犯している〉と、『ブルドーザーデモ』を歩いて思ったのだそうだ。
何を根拠に?
この男はヘイトスピーチに反対しているが、自分のしていることがまさにその「ヘイト」であることが見えていない。自己批評性が決定的に欠如している。首相の顔を模したマスクをブルドーザーのタイヤで踏みつける。これを下劣な行為だと思わないのか?

「群衆」はしばしば独善的な自己陶酔の装置となる。
むろんデモという行為そのものを私は否定しないが、やり方はよほど考えないと、単に阿呆が集って愚かさを濃縮するだけだ。

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作者の死

小学生の頃、上手いは上手いが、いかにも凡庸な花の絵を教師に見せられ、感想を求められたので、感じたままのことを言ったら、叱られた。
その絵は両手の不自由な身体障害者が筆を口にくわえて描いたのだという。制作過程の苦労を思え、と。
なるほど、「苦労」は想像できる。だが、それと作品の評価は別ではないか、と子供心に思ったものだ。

ポストモダン批評全盛時ならば、むしろ「作者」を問題にするほうが野暮とされたことだろう。けれどロラン・バルトの「作者の死」も、確かに“屁理屈”の感がある。今は、「コンテクストもテクストの一部」くらいの解釈が、一般的な落としどころとなっているのか。

あの絵を今、再び見たとしら、私はどういう感想を抱き、何を述べることになるだろう。

害悪

演劇が戦争の悲惨さを描くことを、無意味だとは思わない。
だが、旧態依然とした左翼好みの〈国家=悪/大衆=善〉という二項対立を採る限り、問題の本質は隠蔽されてしまう。多少、相対化した素振りで、「原因は我々大衆にある」というときでさえ、何やら「心がけ」みたいな精神論に回収されてしまいがちだ。
問われるべきは、その思考態度と、それを規定する社会の「構造」であるはずなのに、「戦争が大衆を狂気に導いた」だとか、いつのまにか因果関係を逆転して、結局、“戦争の悲惨さ”を強調しておしまい。
演劇が、そんな思考停止を正当化するツールとしてあるならば、むしろ害悪だとさえいえる。

転移

昔、テレビのCMで、美川憲一が「もっと端っこ歩きなさいよぉ~」っていうのがあったが、同じ目に遭ったことがある。

その声に振り向くと、見知らぬ爺が何やら捨て台詞を吐いて、私の傍らを、ふらふら自転車で追い抜いていった。
私はカチンときた。
追いかけて胸ぐらを掴み文句の一つも言ってやろうかと思ったが、さすがに大人気ないので、我慢した。

***

しかしなんであんなに腹が立ったのだろう、と後になって考えてみる。
私は一つの仮説を立てた。以前、こんなことがあったのだった。

マンションの近隣住民とのやりとりで、筋の通らぬ相手の要求を拒否したところ、意趣返しで、やれゴミの捨て方が悪いだの自治会への加入率が低いだの、管理組合にあーだこーだ難癖をつけてきた爺がいた。この爺、とにかく言うことが支離滅裂で、論理というものがまるで通じない。そのくせ、「老人=弱者」というステレオタイプを活用し、「かわいそうな自分」を自己演出して周囲にアピールする狡猾さだけは持ち合わせている。

これだ。つまり自転車爺への私の怒りは、本来、この難癖爺へと向けられていたものだった。それが、「爺」という類似を蝶番として、いわば怒りが「転移」したのである。
なるほど、そんなこともあるのだな、と我ながら感心し、いい取材になった
、と思えば、怒りも収まった。

八ツ場ダムの遅れの責任は

広島の土砂災害の事実を受け、古い記事だが再掲しておく。

群馬県に建設している八ツ場ダムの完成時期が現行計画の2015年度から4年遅れることになった。同ダムを巡る民主党政権時代の迷走を受けた結果だ。
工期を見直すためにはダムの基本計画を変更する必要がある。国土交通省は事業費の一部を負担する利根川水系の1都5県から意見を聴取するなど、計画変更に向けた手続きに入った。
すでに今年度に入ってダム本体の建設に必要な関連工事を再開している。来年度にようやく本体の工事に着手する方針だ。
完成は19年度になるものの、事業費は約4600億円と現行計画のままで据え置いた。八ツ場ダムの建設費は当初の計画と比べると2倍強に膨らんでいる。すでに事業費の約8割は執行済みだが、工事の中身を精査して計画の範囲内に収めるのは当然だ。
それにしても、民主党の迷走は何だったのかと改めて思わざるを得ない。09年に政権についた直後に八ツ場ダムの建設中止を表明したものの、地元の反発やダム事業の検証結果などを踏まえて結局、撤回した。結果的に時間を浪費しただけだった。
一般論でいえば、自然環境に様々な影響を与えるダムは造らないで済むならばその方が望ましい。しかし、それは洪水を抑える治水、水道水や工業用水を供給する利水の両面で、合理的な代替案があることが前提になる。
八ツ場ダムについては関係する1都5県が一貫して早期完成を求めている。ダムに反対する住民グループが水需要の将来推計は過大だとして公金の支出差し止めを求めている訴訟も、「需要予測は不合理とはいえない」と住民側がすべて敗訴している。
「ダムは中止」と表明しただけで済むような問題ではないことは最初からわかっていたはずだ。調査が始まって60年以上がたつ八ツ場ダム事業で計画が変更されるのは今回で4回目になる。地元住民の生活再建を進めるためにも、早期に完成させるしかないだろう。(日経新聞)

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO58516980V10C13A8EA1000/

〈それにしても、民主党の迷走は何だったのかと改めて思わざるを得ない。〉などと、しれっと書いてるが、さんざん煽ったマスコミ自身がまず総括しろと言いたい。マクロな視点を欠いたまま、脱ダム=絶対善、みたいな情緒的なポピュリズムで、国の政策を推し進めるから、こういうことになる。
思い出すがいい。堤防だって事業仕分けで「廃止」の決定をされたのだ。
〈「ダムは中止」と表明しただけで済むような問題ではないことは最初からわかっていたはずだ。〉と記事は書く。
だが、それがわからぬ政治家であり、国民なのである。

ポピュリズムには、「迎合」する相手がいる。民主党政権のパフォーマンスを、「画期的」であると過大に評価し、拍手喝采した国民がいるのだ。
彼らはマスコミと一体となり、実にマンガチックな国家観のもと、自民党=公共事業=ゼネコン=巨悪という構図を自明なものとし、その上にあぐらをかいた。そうしていさえいれば、誰からの批判も受けず、ただキレイゴトを口にして、「善人」でいられるというわけだ。結果、うまくいかなきゃ、それは政治家の責任。その政治家を“誰が選んでいるのか”は不問に付したまま。
この恐るべき「お客様」根性!

この構造は震災後の原発問題でもしっかり温存されている。
単純な善悪の二分法によって「悪」とされた東電。これを貶めるデータを提供しない学者に対しては「御用学者」のレッテルを貼り、おのが思考の領域から排除する。そうして先の選挙では、デマの吹聴で知られる元俳優なんぞを国会に送り込んだというわけだ。
もし彼らの信じる“深刻な状況”が「事実」であるならば、そんな汚染された土地に住んでちゃいけない。そこでできた農作物など流通させてはいけないし、瓦礫も他県に拡散させちゃいけない。これらは科学的にまったく根拠のないバカげた言説であるが、バカはバカなりに“スジ”だけは通っている。だがその一方で、「絆」だなんだと情緒的な言葉を口にし、己の「善人」ぶりをアピールしておくことを彼らは忘れない。バカなので、その論理矛盾にすら気づきもしないのだ。
覚えておくといい。そういう薄汚いエクスキューズを「欺瞞」というのである。

2014年8月30日 (土)

編み目

原発停止に伴う燃料費の増加分は2013年度で3.6兆円。化石燃料への依存の増大により国富の流出だけでなく供給不安も拡大している。

【平成25年度エネルギー⽩書概要】

http://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2014gaiyou/whitepaper2014pdf_h25_nenji.pdf

「たかが電気」とほざいたブルジョア音楽家よろしく、(自称)芸術家の多くがなぜこうもエネルギー問題を軽視するのかが、私には、わからない。
love & peace?
「平和」を口にするならなおさらだ。
〈金か命か〉などという二者択一の話ではない。それらは二律背反どころか、同根の問題だ。
先の大戦にしたって、まさにこのエネルギー問題が引き金となったのだ。

「平和」というのは、ポリティカルなテクストの、いわば「編み目」だ。
利害関係に彩られた複数の「正義」が、さまざまな文脈で絡まり合い、互いの張力の均衡によってようやくプラグマチックに形作られる。
口先だけで「戦争反対」といっていれば自ずとできあがる、などというものではないのだ。むしろそんな「思考停止」を「素朴さ」にすり替え、正当化することで、適切な状況判断を怠ることが、「平和」を脅かすのである。

正義感

「正義感が強い」といえば聞こえがいいが、多くの場合、単にものの見方が一面的で思慮が浅いだけだったりする。

有用性

有用性に回収されない芝居を作ろう。何の役にも立たない、ゆえに演劇として豊穣な作品を

放射能パニックからの生還=ある主婦の体験から — 自らの差別意識に気づいたことが覚醒の契機に

http://www.gepr.org/ja/contents/20120507-03/gepr.pdf

私は44歳です。数年前から幾つかの大きな壁に直面して、困惑していました。まず自分の年齢により、容姿とスタイルが明らかに劣化しています。「おばさん」として社会から扱われ、自分もそう見ている。この現実が受け入れられませんでした。
そして仕事の問題がありました。大きなことをして世間をアッと言わせたい。長年そんな願望がありました。けれども、何もできていません。他にも子育てや人間関係など悩みは一杯ありましたが、どれも解決の見通しは立っていませんでした。自信を喪失していました。「心に大きな穴」というか、絶望めいたものがあったのです。
そんなときに、放射能問題によって、すべてがリセットされて、一から人生をやり直すことができるのではないかという思いが起こったのです。破壊の中に救いを求める気持ちです。私が震災情報に夢中になったのは、それが刺激的で、これまでの人生の悩みを忘れる事ができるほどのものであったためです。 

私は役割を得たとも思いました。思うような人生を歩むことができない事を、社会のシステムの責任にしていました。「原発」問題は社会に反撃を行うチャンス。原発というこれほど分かりやすい「悪」はありません。
「反原発」を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てましたし、自己愛が満たされました。自分のパニックの背景に、「自尊心の維持」があったと、今になって思います。

こんな風に自己批評の働く人はまだマシで、こじらせて、すっかりカルトめいてしまった者もある。
非常に現代的な問題なので、社会派の劇作家が芝居の題材にしたらいいと思うのだが、実際に彼らのしていることは、少なくとも私の知る限り、むしろこうした「悲劇」を助長することばかりだ。
やれ福島の状況はチェルノブイリよりヒドイだの、それが報道されないのはなんとかムラの力だのという妄想を垂れ流し、誰かをスケープゴートにすることで己の正義を強調する。この三年間、何ら学ぶこともなく、いまだ積極的に「差別」に荷担しながら善人ヅラしてるのだから恐れ入る。

レア盤

429341_165670396878872_1000030773_3世界に一枚しかない私のピアノ演奏の音源。というのはウソではないが、要するに幼稚園時代のピアノの発表会の模様を収めたレコードだ。
むろん自主製作で、世間に流通はしていない。親バカのなせるワザである。

私はラクダ色の半ズボンに白のタイツを穿いていた、と記憶するが、その記憶はたぶん、当時の写真を後で見てのものだろう。
だがステージに上がる直前のことは、ダイレクトに憶えている。

私はピアノの先生に付き添われて下手(しもて)の舞台袖にスタンバイしていた。
ステージでは、何人か、女の子の演奏が続いた。
「いよいよ次は男性ピアニストです」
MCが私を紹介した。「男の子」でなく「男性」という言い方にか、あるいは「ピアニスト」という仰々しさにか、観客がどっと笑った。先生も笑い声を上げた。
私はすでにステージに向かい歩き出していたのだが、あわてて舞台袖に踵を返した。「間違えた!」と直感して。
「いいのよ、いいのよ」
先生が私を回れ右させ、再びステージに押し出した。

私は黄色いバイエル程度の難易度の曲を2曲、弾いた。なんで笑いが起きたのかわからず、憮然として。それでも教えられた通り律儀にスタッカートなんかしてるのが、自分で言うのもなんだけれど、かわいらしい。意外とテンポもキープしている。が、いかんせんミスタッチが多く、時を隔ててレコードを聴く私が、ひやひやしてしまう。

リスクは0と証明されていない

まったくだ。

低線量被ばくの影響は分かっていない?

「低線量被ばくの影響はわかってない」
周回遅れ(どころじゃないな、いったい何周遅れだ?)の放射脳がいまだ枕詞のように使うこのフレーズ。だが、「わからない」というのは「影響が小さすぎて正確な計算ができない」ということだ。想像もつかぬ影響があるかも、ってことじゃない。
もう何度も何度も何度も何度も、目にしてきたこの問答。
この期に及んで適正なリスク評価の必要を理解しない、その思考回路が、私には理解できない。
ほんとに「心配」であれば、少しはマトモに学べばいい。だが、そうしない。せいぜいデマブログに感化されて何かを知った気になっている。ほんとうにバカ丸出しだ。そうして二言目にはおのが動機の純粋性の強調と、俗情との結託に腐心するばかり。かようにロジックが欠如してるから、馬鹿げた陰謀論にすぐハマるのだ。

低線量の慢性被曝が身体に影響がないことは、自然放射線の存在が証明している。生物学の教科書で、DNAの修復機能について調べてみたらいい。「自然」と「人工」が違う、というのも周回遅れのデマだから。「自然」だからなんとなく身体によさげ、ってのは通俗的なイメージにすぎない。これは化学式を書いてみればいいだろう。んなもん、どうやって細胞が両者を峻別すんだって話だ。こんなのは文系の私でも一度話を聞けば理解できる。

たとえば、乳癌の「疑い」があるからと、リスクを最大に見積もって、ろくすっぽ診察もせず乳房の切除を勧められたら、どうだ? 癌による死亡のリスクが低減したから、それで万々歳か? そんなわけはない。もっと「適正」な処置があるかもしれぬ。その合理的判断を下すために、科学の知見を使うのだ。

合理的な根拠もなく、漫画チックな陰謀論を振りかざし、善人ヅラして「もう、そこには住めない」などと嘯く。それが被災地に「呪い」をかけているのだと、いい加減、知れ。
何度も言うが、「動機の純粋性」などいくら強調したところで、反論にも、免罪符にもなりはしないのだ。


2014年8月29日 (金)

振り込め詐欺

ある朝、私のケータイに母から電話があった。
「あれ? 出た」と母。
「何?」
「ケータイ、トイレに落としたんじゃなかったの?」
「は?」
「喉は?」
「ノド?」
「痛くないの?」
「べつに…てか、さっきから、何、言ってんの?」

母が言うにはこういう事だ。
昨夜、私が母に電話してきた。喉が痛いので、医者に行かねばならないが、耳鼻咽喉科がいいか、内科がいいか、と相談した。母は、なんか声がおかしいな、と思いつつ、喉を痛くしてるのだしな、と自分を納得させ、「内科に行くように」と勧めた。私は、ではそうする。あ、そうそう、ケータイをトイレに流してしまったので、今までの番号を消去して、新しい番号を登録して、と言った。
そして母は、私がトイレに流した、つまり今まで通りの番号に、念のためかけてみたというわけだ。
「振り込め詐欺じゃん」
「でもお金を要求されてないよ?」
「これから、されんだよ」

私は警察に通報した。事情を説明すると、出身高校を聞かれた。訝しみつつも私は答えた。すると相手は、私の卒業年度を言ってみせた。
「どうしてわかったんですか!?」
同様の通報がすでに3件もあったのだという。すべて同じ高校の卒業生。つまり、同じ卒業者名簿を使っての犯行だろう、ということだった。

「そういうことらしいよ」と私が電話の向こうの母に言った。
「なるほどね。ところで、喉の痛みにはアミノ酸のサプリメントが効くらしいよ?」
「だから、喉なんか痛くないんだってば!」

***

後日、内科から帰った「私」が、再び母に電話してきた。
どうやら私は居酒屋勤務の女(27歳・既婚)を妊娠させてしまい、相手の旦那がカンカンで、400万円要求されたのだが、弁護士を間に入れて、なんとか100万円にまけてもらったらしい。
その100万円を用意してくれという、およそ劇作家としては失格の陳腐な筋書き。
「結婚しちゃえば?」
母は私にそう助言したらしい。

The Carpenters's Greatest Hits

2014年8月28日 (木)

『男たちの円居』古井由吉

「円居」は「まどい」と読む。
大辞林 第二版によれば、『〔古くは「まとい」。円(まと)居(ゐ)の意〕(1)まるく居並ぶこと。車座になること。 「若き紳士等は中等室の片隅に―して/金色夜叉(紅葉)」(2)親しい人たちが集まり、語り合ったりして楽しい時間を過ごすこと。団欒(だんらん)。 「ストーブを囲んでの―を楽しむ」』とのこと。
ATOKで変換すると、先頭に「惑い」と出た。あながち偶然でもないだろう。
初出は「新潮」昭和45年5月号。パソコンはおろかワープロもない時代に書かれたこの作品の言葉が、今の時代も不気味に読者の皮膚にまとわりつく。

腰巾着

そこそこの年月戯曲を書いてると、ホンの善し悪しはともかく(それは「価値観」に依るところが大きいので)、巧い/下手は、かなり客観的に評価できるもんなんである。
ところが、明らかに駄作といっていい、某有名作家の作品を、大絶賛してる同業者がいたので驚いた。好き嫌いはともかく、誰でも容易に指摘しうる技術レベルの瑕を、強引かつ頓珍漢な解釈でもって、むしろ最大限好意的に持ち上げている。
頭おかしいんじゃなかろうか? 
と思ったら、なんてことはない、作者の一派、俗に言う「腰巾着」であると、後日、人づてに聞いて知ったのだった。
物欲しげでみっともない。

のぼり

方向音痴かつ小心者なので、はじめて観劇する小屋は早めに行って、あらかじめ場所を確認しておく。そうしないと落ち着かない。

我々がこの秋に公演する小屋は、 外観はただの雑居ビル。消防法的におそらく、いわゆる「劇場」ではないので、看板も常設されておらず、客は「ここだ!」という確信が持ちにくい。むろん開場前には、入口脇になにがしかの掲示がされるが、「仕込中」の表示は通常ないので、私のような「事前確認」派は、ほとんどその前を通り過ぎてしまう。ということは、たまたま前を通りかかって興味を持つ、当日券の客にも開かれていないわけで、これは制作的に問題だ。ま、チケット売り切れてりゃ話は別だけど。


ともかくそんなわけで、「のぼり」を作成したのだった。
ほんとは駅から会場まで、道の両脇にこいつをずらりと並べられれば壮観なのだが…。

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Eighth Wonder『Stay with Me 』


Eighth Wonder - Stay with Me 投稿者 sonardj

喉元過ぎれば熱さ忘れる

「福島を復興すべきでない」という、バカな書き込みを目にした。バカもここまでくると呆れるのも通り越す。

カルトじみたノンベクレル系反原発の連中は、プラグマチックな対応を採ろうとする者に対し、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」などという批判をしばしば浴びせる。この期に及んでそんな認識ならば、もう一生、一人で勝手に「膾を吹き」続けてろと言いたい。

誰が「忘れ」などするものか。
時間の経過が人々に、冷静な解釈と判断力を恢復させたのだ。マトモな知性の持ち主はこの間、正しい情報を得る努力をしてきたのである。
独善的で知的に怠慢なカルトには決して解るまい。

螺旋階段

相対主義を徹底しようと思えば、その先には必ず、ニヒリズムの罠が待っている。必ずだ。
だからといって、逡巡した思考の過程は、決して徒労なんかじゃない。
それはいわば螺旋階段を上るようなものだ。
振り出しに戻ったようでも、実はフロアが違うのだ。

2014年8月27日 (水)

観客

一口に「観客」といっても立場によってそれぞれ意味合いが異なる。
劇作家のいう「観客」は、テクストに対する一定水準の理解力=読解力を持つことを常に期待されている、いわば形而上の存在だ。
演出家にとってのそれは、もう少し現実的で、視覚や聴覚への触発にそこそこ敏感に反応する「群衆」である。
プロデューサーにとっては、チケット代や劇場の場所、椅子の座り心地、エアコンのきき、上演時間や休憩の有無などをしきりと気にする形而下の存在として認識される。

『東京日記』内田百閒

牛よりも大きな鰻が堀から出て、電車通りを這っている。

辺りは真っ暗になって、水面の白光りも消え去り、信号灯の青と赤が、大きな鰻の濡れた胴体をぎらぎらと照らした。

私の頭の中にある光景は、内田百閒の「東京日記」にある描写を読んでのものなのか、はたまた映像化された何かを見たのだったか? いや、違う。挿絵だ。と思い至り、「文藝別冊[総特集]内田百閒」を広げて見ると、逆柱いみりのイラストが描かれてあり、そうそう、これこれ! と、ようやく合点がいった。はずだったが、「花火」、「山東京伝」、「烏」、「支那人」、「疱瘡神」、「白子」、「波止場」、「豹」…肝腎の、「東京日記」の挿絵が、描かれてないのである!

 

『貧困旅行記』つげ義春

本書収録の「蒸発旅日記」は、語り部の「私」が、産婦人科の看護婦S子と結婚しようと“一方的”に決めたところからはじめる。
途中、「私」はストリッパーM子に出会う。M子との再会を求めて劇場に行くが、彼女が散歩に出ていて会えず、諦めて「私」がバスに乗ったところで、「日記」は静かなクライマックスを迎える。
このくだりがたまらなく好きだ。

私は去り難くなりバスの後方へ目をやった。と、そこにM子の姿が目に映った。M子は乳母車を押していた。座長の子供の子守をしながら散歩をしているのだった。まぶしく照り返すアスファルトの道をぼんやりした面持ちで、バスの後方に近付いて来た。私は身をかくすように座席に身体を沈め、後髪をふりきるように目を閉じた。バスは発車した。

 

糸井重里さん、福島の桃を買ってツイッターで報告したら反原発派から犯罪者呼ばわりされる・・・

これだけの時間を経ていまだこのザマなのだ。

たとえば、革靴を履いて営業しているサラリーマンが水虫になる。フツーだったら水虫薬で治療しながら仕事を続ける。今後、革靴はよそうかな、くらいは考えるかもしれない。
しかしそれで仕事を辞めろとか、ひどいのになると足を切れとか、いらぬお節介を焼いて「サラリーマンの身体を思えばこそ」などと嘯くのが、いわゆる「放射脳」というやつらだ。

「放射脳」と揶揄されることに彼らは被害者ヅラをする。放射能の心配をしているだけなのに、と。これが実に示唆的だ。おのが動機の純粋性さえ強調しておけば「正義」が担保されると高をくくっている、この浅はかさ。周回遅れのデマ情報を鵜呑みにしたまま改めず、ゼロリスクを求めることで、かえって理不尽な不利益を被る者のあることなど、想像もしないのだ。おそらく例の「美味しんぼ」騒動でも何が問題なのか理解できず、「表現の自由」云々を言っていたクチだろう。

こいつらの頭の悪さにはもう、うんざりだ。

http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-26450.html

2014年8月26日 (火)

闘志

プロパガンダのツールとしての演劇は、やる側がアツくなればなるだけ見ているこちらはドン引きで、少なくとも私は、そういうものに微塵の価値も感じられない。
逆に、劇固有の「正義」を追求するような芝居であれば、つまり劇構造に自覚的に書かれたテキストの上演は、たとえ意匠がどんなに地味であっても、じゅうぶん刺激的たりうる。

先日見た知り合いの芝居が、正にそうであった。
一見、オーソドックスな「ゴドー待ち」構造。だが特筆すべきは、その〈不在の中心〉を、登場人物の「語り」が叙述/虚構の二重のレベルで一挙に中心から消し去る(=殺す)ダイナミズム。「殺し」のタイミングがばっちりハマったのは、作家の意図を超えた“偶然”に違いないが、それこそが「演劇の神様」の仕業というものだ。それだけに、ラストの「オチ」(=〈虚構〉レベルの作家の作為)は余計であると感じたのだったが、ともあれいいものを見た。

「劇評」のつもりはないので作品名等をあえて明かさないが、作者と私の関係は、過去にある戯曲賞の最終選考で〈敵〉同士だったということもあり、シンプルに“闘志”を掻き立てられたのだった。

説明不足

「説明不足」という批判には、作り手はよほど気をつけなけりゃならない。
真に受けて「説明」なんかしたところで、得るところはなく、むしろ作品の魅力を損なうだけだったりする。
実のところ、求められているのは「説明」なんかじゃないのだ。「説明不足」という批判そのものがしばしば説明不足なのである。

天使が通る

「日常」を題材に(口語で)芝居を書く、というのは、それまでの、演劇=非日常という常識に対するカウンターとして出てきたわけだけど、「静かな演劇」も死語となった今、そんな「形式」だけじゃとても通用しない。

私は太田省吾の劇のことを思う。「日常」を参照しながらの、あの独特(異様)な劇固有のパースペクティブに、私は強く惹かれる。とくに緻密な無言劇の創作を可能にした集団性には、プロデュースという形で芝居を作っている身として、歯ぎしりするほど嫉妬する。代表作の一つである、岸田戯曲賞受賞作の「小町風伝」も素晴らしい作品だと思う。が、しかしあの方法が「戯曲」として今日有効かといえば、私はそうは思わない。

あの作品には発語されない膨大な台詞がテキストに書き込まれてある。語られなかった言葉もまた自我を支える言葉であると、若い頃なら素朴に信じられたかも知れないが、今の私はそうじゃない。むしろある状況(=関係性)が、人に意図せずして「言葉」を吐かせてしまう。それが「本心」というオチでは決してなく。
主体のありようが、前者が認識論的世界観に基づくものであるとすれば、後者は解釈学的ということになるだろうか。

俗にふとした沈黙をさして〈天使が通る〉という。
気障な言い方をすれば、私はその天使の羽に触れたいのだ。
そういう立場で芝居を作っている。

期待の地平

『挑発としての文学史』(岩波現代文庫)の中で、著者のH・R・ヤウスは「期待の地平」ということを言った。これは〈テクストに対して読者があらかじめ抱く予測〉というような意味のことだ。

文学作品は、新刊であっても、情報の真空の中に絶対的に新しいものとして現れるのではなく、あらかじめその公衆を、広告や、公然非公然の信号や、なじみの指標、あるいは暗黙の指示によって、きわめて確定した受容をする用意をさせている。その作品は、すでに読んだものの記憶を呼びさまし、読者に一定の情緒を起こさせ、すでにその始まりから「中間と終わり」への期待を作り出している。

劇作家としても演出家としても、「期待の地平」を見定める目は常に持っていたい。そのためにも、イデオロギッシュなバイアスを排除した、いわばフツーの人でありたいと思う。
だが、その一方で、安易な「期待」に寄り添って、それでよしともしたくない。通俗的な思考パターンを“民主主義”的に正当化したくはない。

呪い

原発の是非と被災地の放射能リスクの問題はまったく別の話だ。
ドグマチックな左巻きどもはともかく、なぜ一般の人までが、いつまでも両者を混同したがるのか。
ということをつぶやいたら、ある生物学系の学者から「WBCなんかしてるからだ」という旨のツッコミが入ったのだった。

確かに素人目にも、さして意味があるとは思えない。
けれども私は思った。人は理屈だけでそう簡単に割り切れるもんじゃない。WBCの検査によって、「万が一」の不安が被災者から払拭されるのであれば、それはそれでいいではないか。〈雨乞い〉の儀式を科学的に無意味だといってみたところで、それこそ無意味だろう。あとは費用の問題だ。そう結論づけられると思っていた。
だが、これがそんな単純な話ではないというのだ。

甲状腺がんが放射線由来のものであるか否かを科学的に確定するには、当然、対照群が要る。そのため、ほんらい無用な検査を他県の子供にまで強いる結果となる。
〈雨乞い〉と異なり、WBCはなまじ「科学」の顔をしてるので、「そらみたことか」と、またぞろ左巻きの偽善者どもがこれを曲解し、イデオロギー闘争に利用することだろう。
子供のためなどと言いながら、子供に「呪い」をかけるというわけだ。

なるほど言われてみれば確かにそうだ。スジの通らぬその場しのぎの対応は禍根を残す。
あの連中は
決して学ばない。そのことをこの三年で私は学んだ。幸か不幸か演劇界の片隅にいると、そのサンプルには事欠かないのだ。

2014年8月25日 (月)

『砂男』ホフマン

「目」にまつわる怪奇小説。
読後感がカフカの「変身」に似てるな、と感じた。最後、主人公が死に、残された者はいわば厄介払いで、むしろハッピーなとことか。

暗喩によってもたらされる小説固有の不気味さを、舞台化することって可能だろうか? などと、ついつい考えてしまう。
たとえば、こんなくだり。

コッポラはいそいで晴雨計をわきに置くと、だぶだぶの上衣のポケットに手を入れ、柄つき眼鏡やら普通の眼鏡やらを取り出してナタナエルの机の上に並べはじめた。
「ほうら、ほら、鼻にかけるとよく見える―とてもすてきな目玉だよ!」
そんなことを言いながら次々と取り出しては並べていく。みるまに机の上が異様にピカピカ光りはじめた。数知れない目がギラリと輝き、おりおり烈しく目ばたきしながらナタナエルを凝視している。

 

理想

学生時代にもっと勉強しとくんだった、と後悔することはしばしばあるが、よくよく思い出してみれば、学生ってなんだかんだと忙しい。私のいた経済学部なんかは「猫より暇」とか言われてたのだけど、猫には猫なりにやるべきことがあるのだし。
だいたい勉強してたら、ほんとに後悔せずに済んだのだろうか? 
「理想」というのはいつも「現実」より少し高いところにあって、手の届かぬものではないか? 
届かないから「理想」なのだし。

わかっちゃいない

ある芝居の初日乾杯の挨拶で、芝居の作者が冗談めかした口調で言った。
「ところどころ、書いた本人にも意味がわからない」
それを聞いて同席していた女優が激高した。
「無責任な! 作者のわからないものを役者がわかるはずがない」
私に言わせりゃその女優はテクストというものをまるでわかっちゃいない。

2014年8月24日 (日)

バブル世代

世代論みたいなものにはあまり与したくないのだが、ある本の中で、私と同世代の学者が、いわゆる「バブル世代」についてその特徴を記述しており、なるほど確かにそうかもな、と思ったのだった。

いわく、〈この世代は共同体的なものを否定して脱アイデンティティでいかなくてはいけないという発想がとても強い。思想的には80年代ニューアカ的知的流行の影響を受けていて、なんでもネタとして捉えてしまう。ベタなものが嫌いで、そういうスタイルを受け入れられず、全部ネタのレベルで解釈してしまう〉とのこと。

しかし当時、たとえば浅田彰的なものに自分が心酔してたかといえば、そんなことは全然なくて、むしろ、デリダだフーコーだ ドゥルーズだって騒いでるような連中をこそ「ネタ」として笑い飛ばしてたくらいなのだが、翻っていえば、それほどまでにフランス現代思想の影響力は絶大だったということだ。

一般的にポストモダンは行き過ぎた相対主義と批判されたものだが、それゆえに、同世代の人間がいとも簡単に旧態依然としたイデオロギーに旋回していく昨今の単細胞化傾向を目にするにつけ、おまえらあの頃いったい何をしてたんだ? と問いたくなる。

都ぞ弥生

愛校心が、なくは、ない。
でも、「都ぞ弥生」は嫌いだったなあ、と思う。
変拍子(?)やテンポがゆっくりになるとことか、カウントの「正解」がわからなくて気持ち悪いし、何より他人と肩組んでゆらゆら揺れちゃうようなノリにまったく馴染めなかった(し、今も馴染めない)。

記憶/歴史/物語

人は自分の過去を物語として記憶する。
翻っていえば、「記憶」とは「過去」の「物語化」に他ならない。思い出が美化される、というのはある意味当然のことなのだ。
「歴史」が「物語」であるというのはこの文脈上にある。
ならばもとより「歴史の共有」など不可能な話だ。
私には私の物語があり、あなたにはあなたの物語がある。両者は決して一致しない。
この「絶望」を引き受けること。そこからしか、何もはじまりはしない。

コノテーション

コノテーション 【connotation】
[1] 言外の意味。含意。
[2] 〔専門〕 論 内包。共示。潜在的意味。⇔デノテーション
[3] 〔専門〕 論中世論理学で、ある語が具体的事物を指示するとともに、抽象的事物を随伴的に指すとき、この後者の働きをいう。例えば「白いもの」は、具体的な事物を指示しつつ、同時に「白さ」を随伴的に指しもする。

通常、俳優というものは、台詞のコノテーションに敏感なものだ。
作家の意図していない「行間」まであえて誤読して、自らその役を「おいしく」仕立てようとする。
舞台に立つ者として、この自己顕示欲は基本的に、正しい。

しかし
希に、これと真逆の働きをする役者がいる。
当然イメージされるであろう台詞の抽象性=比喩を排除し、むしろそこに〈書かれてあるとおり〉の具体的現象に解釈を矮小化してしまうのだ。
なぜか?
戯曲の構成要素の相互関係から「役」を読み取ることをせず(できず)、割り振られた台詞から刹那的に感情をこしらえようとするからだ。
自己啓発か何かのツールとして演劇を活用するならそれでいいのかもしれないが、「俳優」としては、それではまるで足りない。

対照実験

「環境省 報道発表資料-平成25年3月8日-福島県外3県における甲状腺有所見率調査結果(速報)について(お知らせ)
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=16419

対象者:3~18歳の者 4500名程度。
実施期間:平成24年11月~平成25年3月下旬。
調査対象地域:青森県弘前市、山梨県甲府市、長崎県長崎市の3地域。
調査結果は、「しこり」「嚢胞」が見つかった割合…福島県内:41.2%、長崎・青森・山梨:56.6%。二次検査が必要なB判定の割合…福島県内:0.6%、長崎・青森・山梨:1%。
いずれも福島県内の方が、むしろ低い数値となっている。

甲状腺癌の検査を受ける子供の“かわいそう”な写真などを拡散し、「反原発」に結びつける“社会派”気取りの劇作家を目にするが、根拠としてまるで意味がない。それどころか、イデオロギーのために俗情を活用することは、問題の臨在感的な把握(山本七平)を積極的に肯定する行為であり、これこそが、いわれなき差別、偏見の源となっている。
いつまで経ってもそういう自覚がないからバカだというのだ。

『軽いめまい』金井美恵子

「水道の水を眺めながら何を考えるのでもなく、ぼうっと放心する心地よさと虚しさ」を、作中、主人公の夏美がマンションの台所で感じるのと同じように、この小説の長い長~いセンテンスに翻弄されるうち、我々読者の視線は行間からこぼれ落ち、意識の縁から、記憶の底に沈んだ些細な出来事を覗き込んでいるのだが、ふいに我に返って、再び活字が目に飛び込んできたとき、くらっと“めまい”に似た体験をすることになるのである。
それにしてもなんて素敵なタイトルなんだろう。

 

『杳子・妻隠』古井由吉

深夜、カーペットに落ちた髪の毛が突然気になりだして、コロコロで掃除する。一度気になりだすと、壁紙の煤けた汚れや、ガラスの指紋、テーブルの上のコップを置いた丸い跡など、とめどなく気になりだす。
そんな自分の姿を省みて、これって昔、どこかで読んだことがある、そう思い、本棚の奥から古井由吉の「杳子・妻隠」(新潮文庫)を引っ張り出してきた。

礼子は濡れ雑巾を片手に、煤けた顔で台所の混沌の真只中に立ってうつむいていた。
「何してるんだ。こんな時間に」
「ええ、戸棚の奥がなんだかカビ臭くて」
まだそのにおいが残っているみたいに礼子は眉をひそめて、戸棚の前にゆっくりしゃがみこんだ。そして戸棚の中を雑巾で力いっぱいに拭き、手を止めて奥をじっとのぞきこんだ。(妻隠)

静かな「狂気」。その舞台装置は、やはり「日常」こそが似つかわしい。
ちなみに「杳子」は「ようこ」、「妻隠」は「つまごみ」と読む。

 

権力

権力は権力自体に拠って立つものではない。また、権力自体を出発点として手に入れられるものではない。権力メカニズムは「あらゆる関係の総体にとって元々内属的な部分をなす」のであって、関係と権力メカニズムは互いに互いの原因にして結果だという循環的な関係にある。(ミシェル・フーコー )

論争

ネット上での、ある論争を傍観していた。
最後は“論争”というより罵り合いの様相だが、発端となった発言は、とてもよく書けた文章で、その感性に私はとても感心した。
それに噛みつく者のほとんどが、くだらん揚げ足取りなのだけど、中には希に、意味ある指摘をする者もある。
しかしその説得力ゆえ尚のこと、噛みつかれた方は、ほとんど意固地となって、その指摘をも切り捨ててしまうのだった。
敵/味方の二元論に自ら嵌り、批判の匂いを含むコメントには徹底抗戦。その一方で、あろうことか、しょーもないバカな擁護にすり寄ってしまう。
あれほど素晴らしい文章の書き手が、こんな幼稚な反応をするのかと、論争の内容よりも、そのことについて深く考えさせられてしまう。

怪情報拡散要員

〈怪情報拡散要員〉は「仲間」がもたらす怪しげな情報にすぐに飛びつく習性がある。
彼らの働きにより我々はこの数年、多くの「陰謀論」を目にし耳にしてきた。
記憶に新しいところでは、「美味しんぼ」騒動と「国民投票法改正」を結びつけるものがある。

この三年間ろくすっぽ学ぶことをせず、それ以前に「学ぶ」ということがどういうことなのかすら理解できない彼らは、放射能汚染を理由に東京五輪にも反対したし、被災地住民に対する独善的で無責任な「移住」のススメに荷担するなどしてきた。
線量が一定の範囲内に管理=コントロールされていることと、物理的に水を一滴も漏らさぬことの区別もつかぬ。くだんの「鼻血」騒動では、当然、「鼻血」派についた。

がんらい、その程度のオツムなのである。すでに一般常識となっている科学的知見を彼らが知らぬのも無理もない。それを識者に次々つきつけられれば 、今さら無理筋の相対主義を持ち出し、曖昧に意思表明保留。

それでも「保留」中に考えを改めるならまだ救いがあるが、今度は〈「騒動」は国民投票法改正から注意をそらすため〉というウルトラCの陰謀論をひねり出してくる始末だ。
次にくるのは大方の予想通り「表現の自由」云々への論点ずらし。挙げ句に〈何らかの圧力による事実上の「閉架」〉などという、またも真偽の怪しい情報に簡単に飛びつき、バカの無限ループを披露するのだ。

2014年8月23日 (土)

方程式

私のような作風は、「意識の高い」人から、しばしば「日常系」とか「半径5メートル」などと揶揄される。言いたいやつには言わせておけばいいと思っているが、彼らの「評価」を手っ取り早く得るコツ=方程式を、知らないわけじゃない。

党派性に寄り添う形で、「戦争」など、大文字の問題を作品に介在させればよい。
戦争=絶対悪とすること、命の尊さを唱うことを、否定できる者など誰一人いない。閉じた俗情と結託し、思う存分、タダシイ自己主張をすればよい。

ただし、そのような方程式に則って書かれた作品は、正真正銘、最低だ。

サンクコスト

首相の靖国参拝の是非はひとまずおく。
だが、それがサンクコスト=埋没費用へのこだわりという、某経済学系の言説には、大いに違和感がある。
参拝によって死者が蘇るなどとは誰も思ってない。そんなことは、わざわざ指摘してくれなくたって、誰でも知っている。
追悼行為が、中韓や日本国内の左巻きの言いがかりによって妨げられている、この異常な現状を、本来あるべき形にしようというのは、〈これから〉の、未来の話だろう。

耳鼻科

「集団的自衛権」にしろ何にしろ、賛否はあってもちろんいいが、論点を明確にしてくれよ、と思う。特定の政治家への属人的な攻撃で溜飲を下げているなら、己の頭の悪さしか示さない。幼稚な戯れ言に耳を貸してるヒマはない。

しかしつくづく不思議である。拉致問題ではだんまりを決め込み、北朝鮮のミサイルにも、尖閣諸島を巡る中国の動きにも鷹揚に構えている人たちが、自国の防衛力強化には「きな臭い」とか「軍靴の音が」とか言い出す。これはいったい何なのだろう? 

耳鼻科へでも行った方がいいんじゃないか。

今の日本に演劇というものが必要か

「今の日本に演劇というものが必要か、と自問自答し、むしろこんなときだからこそ、と上演を決意した」
3.11以降しばらく、この手のパターンの文章をいろんなところで目にした。
〈葛藤〉を口にしてみせることが“誠実さ”のあらわれであると思い込んでいるらしい。また、このような状況下で興行に関わることのエクスキューズにも見える。

だが
作家としてほんとに“誠実”であろうとするなら、まずは言葉のインフレに自覚的であるべきじゃないのか。
ほとんど「枕詞」のように形骸化し
た「こんなときだからこそ」的フレーズを躊躇なく書きつけてしまうその厚顔無恥こそを本来恐れるべきじゃないのか。

そもそも劇を書く人間にとって、己の仕事が社会に必要か否かと、〈有用性〉を物差しに内省的になってみせることの、いったい何が「誠実」であろうか。

火事場泥棒

〈火事場泥棒は火事のせい〉系。
こんな論点のすり替えで何事かをいったつもりでいるのだろうか?

事故から三年以上が経ち、知ろうと思えば有意な情報がじゅうぶん手に入る環境で、「今は何も分からないだけなのだ。」などという情報弱者に用はない。

http://www.huffingtonpost.jp/atsushi-funahashi/oishimbo_b_5313031.html?utm_hp_ref=tw

呪い

たとえばR15指定の映画というのがあるが、「15才」という年齢は、ある決められた機関による“政治的”線引きであり、実際に15才に満たぬ子供がその映画を見たら将来どういう影響があるかが、科学的に検証されているわけではない。
もちろん「科学」がすべてじゃないし、そういう線引きもときに必要だろう。だが、所詮は“その程度のもの”という一歩引いた視点も必要だ。
この〈一歩引いた視線〉を失って、「基準」を鰯の頭みたいに絶対視することによって、それが本来要請していた機能はむしろ失われる。

「この子はR15の映画を見てしまった。将来トンデモナイ大人になるだろう!」

善人ヅラしてカルトじみた“呪い”をかける。
それが「放射脳」のやってることだ。

ら抜き

口語で演劇をつくろうという場合、いつも折り目正しい日本語を使えばいいってもんでもない。
たとえば今、「ら抜き言葉」はすっかり市民権を得ている。そうした状況下、作家が作中の人物たちに、闇雲に「ら抜き」を禁じたとしたら? 
観客が目にするのは、作家の美学ではない。
〈今どき、あえて「ら抜き」を回避する意志を持った人物〉が舞台上に登場することになるのである。

2014年8月22日 (金)

立ち位置

論争の前提となる事象の真偽がAかBかと問われている局面で、ABいずれにも与しないという選択は、あり得ないではないけれど、ならばその立ち位置を明確にするのがアタリマエだ。
どっちに転んでもいいように、己のスタンスを曖昧にしたまま、「「事実」かどうかは問題ではない」などと、命題そのものを“ちゃぶ台返し”してみせたところで、そのことに何の意味もない。

主観主義

ハンセン病が差別されている時代、自分の家の墓に納骨されないことが普通であった。小舟での上陸時、わざわざ別の船着き場を使用していたことが記録されている。宮古島の離島、池間島のある浜は、昭和30年代に南静園に隔離されている島出身の患者の接岸地であった。マズムヌヒダガマ(悪霊浜)と言いウトルス(脅威)の地であった。周りは青々としてアダン、アザミ、ハマヒルガオが生い茂り言い知れない匂いも強烈であった。海での事故死の時も使われたこの船着き場が現在も残る。(Wikipedia)

巷に溢れる“良心的”な言説は、「子供の未来が心配」であるとか、その手の紋切り型の“思いやり”で彩られている。自分を「悪意」と無縁の者であると証明しようとでもしているようだ。
だが、「差別」は「悪意」がもたらすものではない。
一面的な「優しさ」だとか「思いやり」だとか、そうした“情緒”を絶対視し、行動の原理とする主観主義こそが「差別」をもたらすのだ。
ハンセン病患者の悲劇は、このような主観主義=無知な「善意」が生んだのだ。

 

ゼロリスク

小学生の頃、クラスにいじめられっこの女子がいて、男子から無根拠にバイ菌扱いされていた。
恐ろしいのは、「汚ねえ」「触んな」「えんがちょ」と遠ざけられるのが、日常的に繰り返されるうち、いじめる側はもとより、いじめられてる側さえもが、まるでほんとうに自分が汚いもののように思い始めてしまうことだ。

今、「無根拠に」といったが、もしも彼女に精密な検査をしたならば、たしかに何らかの「バイ菌」めいたものが検出されただろう。
他の誰からも検出されるのと同程度に!

上記いじめの例は、実は悪意があるだけまだマシだ。己の行為を自覚しているのだから、先生にぶっ叩かれれば反省もするだろう。
ところがそんな悪意すらなく、バイ菌の感染するのを“純粋”に恐れて「えんがちょ」する者がある。こういう“ピュア”な連中が一番始末に負えない。
彼らのロジックはこうだ。程度はどうあれ、バイ菌の検出されたことに変わりはないのだから、「えんがちょ」しとくに越したことはない、と。
 
ゼロリスクを求めて、微量の放射線に過剰反応する者らを、私は再三バカ呼ばわりしてきたきたが、つまりはそういうことだ。

『「空気」の研究』山本七平

簡単にいえば原子力発電について三、四時間かけて正確な情報を提供し、相手の質問にも応じ、相手は完全に納得したはずなのに、相手はそれで態度は変えない。そして、いまの説明を否定するかの如く見える一枚の写真を見せられると、その方に反応してしまうという。(P214)

公害問題が華やかだったとき、「経団連」をデモ隊で囲んで「日本の全工場をとめろ」といった発言に対して、ある経済記者が「一度やらせればいいのさ」と投げやりな態度で言った例にその実感がある。これは、臨在的把握に基づく行為は、その自己の行為がまわりまわって未来に自分にどう響くかを判定できず、今の社会はその判定能力を失っているの意味であろう。(P218)

21世紀の今日においてなお、日本の大衆の間に根深く蔓延る「穢れ」の思想が歪んだ「社会通念」を形成する。非科学的な思い込み=「偏見」が、“勢い”で正当化され、これに水を差すべき客観的論理=「科学」というものが、馬耳東風の大衆の前に沈黙する。
そうして現実に多くの風評被害が引き起こされる様を、我々はこの数年目にしてきた(し、今も目にしている)。
「類は友を及ぶ」のか、「朱に交われば赤くなる」のか、彼らは自分を善と認める者だけを善と認め返し、閉じた「みんな」を形成する。愚か者同士で徒党を組んで、愚かさを濃縮させている。

本書の初版は昭和52年。
いまだ日本国民は、まるでこの臨在的把握=「空気」の支配を克服していない。


福島での被ばくによるがんの増加は予想されない

〈福島での被ばくによるがんの増加は予想されない〉http://www.unic.or.jp/news_press/info/7775/
 
私のような“凡庸”な人間は、どこの馬の骨とも知れぬ怪しげな者が吹聴する“隠された真実”なんかよりも、国連科学委員会(UNSCEAR)報告書の方に信憑性を感じる。
「報告」の内容も、常識的な生物学的知見と矛盾しないし。

しかし劇作家たるもの、そんな「常識」に囚われず、もっとアクロバティックな推論を展開して、これを〈安全デマ〉と結論づけるべきなのだろう。
というのはもちろん、本心ではない。
「放射脳」の同業者に対して皮肉を言っているのである。
皮肉であると、いちいち言ってやらなけりゃ、そうと理解できないオツムの持ち主たちだから、野暮を承知で書き手の意図を明らかにしておく。

科学者が放射能騒動に関わらなかった理由

http://blogs.yahoo.co.jp/bloom_komichi/66459413.html

 「歪んだ正義感」や「「危険」と言う方が思い遣りのある人と取られやすい雰囲気」で、ノイジーマイノリティのヒステリーが専門家を黙らせた結果、大衆の多くは有意な情報を得る機会を奪われた。

リスクを「正しく」=「適正に」恐れる必要を、この「歪んだ正義感」の持ち主たちは、まるで理解しない。“事実を知りたい”というポーズをとるくせに、その実、決して学ぼうとしない。せいぜい自分の思い込みを補強するのに都合よさげな知識だけを仕入れ、それで耳目を閉ざすから、専門家がどんなに正しく情報発信に努めたところで徒労に終わる。
発信器が優れていても受信機がぶっ壊れていたんじゃ話にならないというわけだ。

「「危険」と言う方が思い遣りのある人と取られやすい雰囲気」に浸り、場当たり的に善人ぶるから自己矛盾に陥るのだ。振り上げた拳を正当化するために都合良く他人の言説をコラージュするから、論理的整合性などありはしない。
たとえば「東京五輪招致」に、放射能汚染を理由に反対の声を上げたその口で、被災地の風評被害を嘆いてみせる、あの連中を思い出せばいい。
彼らは自ら被災地への差別と風評被害を助長しながらその自覚すらない。自分の論理が矛盾していることにすら気づかない。そうしてワイドショウばりの短絡的な「物語」で「絶対悪」を作り上げては、それを叩くことで、おのが「正義」を担保しようとする。

上記リンク先の記述にもあるように、一時期、放射線による影響で畸形が生まれたというデマが流された。
そもそも畸形はどんな環境でも一定数生まれるので、それが放射線由来であるというなら、因果関係を示す客観的根拠が示されてしかるべきだ。
だが、そんなものはありはしない。何が根拠たるかすらも彼らは理解できていない。ただ放射線の恐怖を強く「印象」づけるのに、出所も怪しいグロテスクな奇形児の写真を利用した。これをSNS等で拡散し、ファナティックに恐がって見せれば、「問題を憂慮する善人」のスタンスで、社会問題にコミットしているとでもいいたげだ。
こういうバカのお祭り騒ぎにより、被災地は風評被害による経済的ダメージを受け、また実在する奇形児たちの人権は傷つけられたのだ。「ブーム」が去っても、何ら総括されることがなく、だからいつでもまた同じことが繰り返される。

バカに限って動機の純粋性を強調したがるが、仮に動機が“純粋”であったとしても、そんなものは免罪符にはならないのだ。
騒ぎに乗じた連中は、差別主義者の片棒を担いだのだと知れ。
そして何より、この差別主義者たちの中に、日頃「人権」を声高に口にする演劇人の多く含まれることを、私は劇作家として記憶しておく。

2014年8月21日 (木)

号泣議員

すでに「流行遅れ」となりつつある「号泣議員」。私も動画サイトで会見の模様を見たが、多くの人が言うようには、笑えなかった。

およそ反論の余地がないステレオタイプの「善」を持ち出し、それに対する自分のアツイ思いをアピールする。そのアツさでもって、論理の破綻を補おうとする(補えてなかったけど)。

丸山眞男がいうところの「動機の純粋性」。これが日本の大衆の価値判断における大きな要素であることを、彼は無自覚のうちに心得ている。ゆえに、バカが開き直ってその「バカ」をキヨキココロにすり替える。
それだけでもう、私は反吐の出る思いなのだが、しかし昨今、論理の破綻した幼稚な大人など、そこいらじゅうで見られる。
放射脳を見るがいい、空想平和主義者を見るがいい、捏造記事を放置して謝罪すらできぬ大新聞の社長を見るがいい。
くだんの議員は、少しばかり演技が下手すぎただけだ。

「号泣議員の支離滅裂ぶりを嗤う資格がおまえにあるか?」と、彼らに問いたい気分だ。

チンピラ

自分の政治的立場を、右でも左でもなく、また中立ですらないと思っている。右と左を足して間をとるのが〈中立〉であるならば、〈中立〉そのものに意味などない。
一度はニューアカにかぶれ「逃走」を夢見た、
古典的自由主義。あえていうなら、そういうことになろうか。それを私は勝手に「チンピラ」と名づけているのだが、この比喩が当を得たものであるかどうか、よくわからない。
ともあれチンピラなりに、せめてプラグマチックでありたいとは思う。
今さら恥ずかしげもなくマルクス主義的な左旋回をしてみせ、党派性の毛布にくるまりながら、ぬくぬくと安全な「革命」をつぶやくカラッポ頭のボンクラよりは、遙かにマシというものだろう。

定石

「定石」とは方法論の集積であり、これを覆そうと思ったら、ひょんな「思いつき」なんかじゃダメだ。 そんな思いつきは、過去に誰もが思いついていたのであり、それが今、誰にもやられていないのは、やられていないなりの理由がある。 少なくともその蓋然性に思い至る程度の批評性もないならば、結果はハナから見えている。

受信機

まだ書かれてもいないし、おそらく今後も書かれることのないホンの話など、テキトーに聞き流せばよかったのだが、その構想の、あまりに短絡的で牽強付会な因果関係の設定と、俗にいう「ネトウヨ」レベルの陳腐な愛国イデオロギーにうんざりし、思わず素直に感想を述べてしまった。

言わないでいいことを言ってしまうのが私の悪い癖で、相手が激昂するのも、まあ無理もないなと、いつも後になって思うのだけれど、しかしこの文学的カンの悪さは、少なくともホンを書こうなどという人間にとって、ちょっと救いようがないな、と思ったのも事実だ。

「結局、好みは人それぞれ」というところに話を落とし込もうとする判断停止ぶりもセンスが悪い。「好み」の問題なんかじゃないと私は確信を持っていえる。なぜなら、その「問題」の8割方は、単純な技術論に還元できてしまうからだ。

端的にいって通俗的でバカ丸出しなのである。

けれど、そのことを、相手に理解させるのはすこぶる難しい。まず不可能だ。どんなに電波を送信しても、受信機が壊れていたんじゃ話にならない。

というか、仮に理解したとこで、どうなる?

怪男児 麿赤兒がゆく 憂き世 戯れて候ふ

唐組の『電子城2』が上演されたのはいつだったか?
そう思い、上演記録を調べてみたら1991/05/11~06/23であるという。

その年、私は大学を卒業し、就職して上京した。しかし演劇への未練たらたらで、日々悶々としながら新入社員研修を受けていた。
そんなある日、新宿の花園神社で『電子城2』を観たのだった。
神社の境内で、腰にガチ袋を下げ、テントを建てる若い役者の姿を、私は羨望の眼差しで見、己のスーツ姿に恥じ入ったものだ。
その芝居に、麿赤児が出演していた。
もちろん麿赤児という俳優は知っていたのだけれど、噂に違わぬ怪優ぶりに、私はすっかり度肝を抜かれてしまった。

怪優はスカートをひらひらさせて「少女」を演じていた。

自由とは何か

普通、われわれは「自由な個人」から出発する。「自由な個人」から出発すれば、国家はそれに対する制約としてしか理解されないだろう。こうして、「権力を行使する国家」に対する「自由な個人」という図式が出てくる。確かにこの図式が妥当する局面もしばしば存在する。しかしより根底にあるものは、「自由な個人」を支える「権力を持った国家」なのである。この後者をとりわけ注意しておきたいのは、「権力」VS.「自由」や、「国家」VS.「個人」という図式はあまりにわかりやすいのに対して、「権力」や「国家」が「自由」や「個人」を支えているという側面はなかなか見えにくいからだ。

私はこんなことを思い出す。
かつて新宿で行われた「反戦」をテーマとする芝居。
開場を待つ客の長い列で、初老の男が、若者に話しかけていた。
警察は不要である、と。なぜなら警察が出動することにより、凶悪事件は一向になくならないのだから――
「キミ、そうは思わないかね?」
全共闘世代と思われる男は、まるで〈運動〉していた若かりし頃の自分自身に語りかける口調だ。
私はそれを見て心底うんざりした。
とうの昔に葬られたものと思っていた、この手の頭の悪い左翼丸出しの議論が、21世紀の今日において、相も変わらずされている。何一つ進歩がない。 なるほど、バカは死ななきゃ直らない、とはよくいったものだ。
著者は、本書の終盤でこう述べる。

現代の「自由」が「自由」を蝕んでいるといってもよいし、「自由」の領域をいささか矮小化してしまっている、といってもよい。ここに現代の「自由のパラドックス」がある。

そして、このパラドックスの生じる理由は、〈「自由」という観念に実際上、意味を与えている条件、それを支えている条件に目を向けていないからである〉と。

『東京大学「80年代地下文化論」講義』宮沢章夫

〈ピテカン〉的なものと〈おたく〉的なもの。前者が80年代の文化的ヒエラルキーの上位に、後者が下位にあった、と著者はいう。そして当時、虐げられていた〈おたく〉たちが、後に「ヒルズ族」なんかになり、80年代を振り返ったとき、あの時代は「スカ」だった、と切り捨てる。

概ねそんな見取り図(ストーリー)で、大塚英志『「おたく」の精神史』を反語的に参照しつつ、「80年代」を再評価しようという試み。らしい。

「おたくの保守性」に対する〈批評性〉」というチャプターで、『おたくが閉塞しちゃった先にあるナショナリズムというのは、具体的にどういうものなのかというのを聞きたいんですけど』という学生の質問に対する回答の中で、著者は次のようにいう。

たとえば、小林よしのりのような人が出てきて、ちょっと肩を押されると、すっと右の方へ行く。すると彼らは簡単に、ものごとを単純化する。小林よしのりが語ったような言葉を使うわけです。

だが、「簡単に、ものごとを単純化」するのは、べつに〈おたく〉に固有のものではないだろう。それが証拠に、この著者こそがここでこのように〈おたく〉とナショナリズムを単純に結びつけている。

俗に若者の右傾化といわれる現象に関し、私なりの感触を述べておけば、ざっとこうだ。
戦後、なんとな~く左よりの立場で自民党批判でもしておけば「正義」が担保できる時代が長く続いた。しかし北朝鮮による拉致事件を目の当たりにした若者は目が覚めた。少なくとも、なんとな~く左より=うすら左翼が無条件に肯定される戦後教育的パラダイムに疑いを持ちだした。よほど知的に鈍感でない限り、日教組的な欺瞞に気づき、「国家」というものを少々真面目に考えざるを得なくなった。

その一部が先鋭化して民族主義的言論をネット上などで弄していることは事実で、おそらく著者は、そうした連中に苛立っているのだろうが、一部を全体に敷衍すると大事な文脈をつかみ損ねる。己の立てた仮説のフレームにあわせ、現実の方を歪めてしまう。

私もまた、80年代を「スカ」と切り捨てることに異論を唱えたい立場だが、たとえば下の動画のような光景を目にするにつけ、脱力してしまうのだ。 

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=fCbzuDDaY7c


鳥肌が立つほど恥ずかしい。
上記引用文の「小林よしのり」を、「大江健三郎」や「柄谷行人」、あるいは〈ピテカン〉的なる人物として本書でも名前の挙げられている「いとうせいこう」に置き換えてみればいい。
右と左が異なるだけで、これもまたひとつの「内閉する連帯」に他ならぬのではないか?

『生き延びるためのラカン』斉藤環

なるほどセックスをすればときには妊娠もする。あげくに「愛の結晶」なんてものが生れてきたりする。僕たちは、そういう体験にこそ「本物の関係」があると信じたがっている。でも、ひとたび精神分析を受け入れるなら、そもそも生殖や繁殖は、性とは何の関係もないことになる。妊娠や出産は、実は象徴界の外で起こる、いわば「現実的」なできごとなんだ。

  
ラカンのいう三界「想像界/象徴界/現実界」というのが、そもそも難解すぎて、「知的に早熟な中学生ならすいすい読める」(著者)ハズの本書を読んでも私なんかにはいろいろピンとこないのだけど、ラカンのいうように、人間が「本能」を喪失した生き物だとして、単に異性愛が「自然」であるという「取り決めがされたに過ぎない」のなら、ここにいるオレや、オマエは、いったい何なのだ?
「取り決め」による産物? 
仮にそうだとしても、じゃあなんでそんな「取り決め」がされたのか? 
妊娠・出産という「現実界」のできごとが、「象徴界」における合理的な組み合わせの選択(男×男でも女×女でもなく男×女)を指し示している、といえるんじゃないの? それがすなわち「自然」てことなんじゃないの?
そいつを否定するから話が積み上がっていかない。
 
同性愛者への差別を肯定する気はさらさらないし、男×男でも女×女でも私に関係ないので基本的に「知らんがな」の立場だが、誰もが一対の男×女である両親の間に生れてきたという厳然たる事実は覆らない。その「事実」つまりこの世に生まれてこなければ、LGBT「問題」も存在しない。
そう考えると、「生殖や繁殖は、性とは何の関係もない」と大見得を切る資格があるのは、この世に生れて「こなかった」者だけだ、と私は思うんだがね。

 

パースペクティブ

演劇には演劇固有のコードというか、パースペクティブというものがある。
作り手がいくら細部にこだわったつもりでも、観客の目には必ずしもそうは映らない。過度に真らしさに拘泥すれば、むしろ舞台上に無粋な“アリバイづくり”の臭いが立ち込める。

稽古

人は誰でも過去の“成功体験”にすがりたいものであるが、演者の“引き出し”の中にある出来合いの表現は、しばしば芝居を平板なものにしてしまう。
通常、小劇場では稽古を約一ヶ月やる。その間、演技プランを構築しては、また壊す。それを繰り返す中でようやく「役」が呼吸を始める。
芝居の稽古とはそういうもの。それがクリエイティビティというものだ。
口から淀みなく台詞が出てくるようになるのが稽古の「ゴール」なんかじゃない。そんなものは、ただのスタートに過ぎない。

欺瞞のはじまり

ある「事実」を前提とした心象。その心象を語る言葉を、時間をかけて彫琢してみたはいいが、後に「事実」が事実でないとわかったとき、つまり心象の前提が崩れたとき、さて、ひとはどうするか。
磨き上げた自分の言葉を捨てられない。上げた拳の下ろしどころがわからない。結果、「事実」と「心象」の因果関係を破棄するのである。根拠を失い、宙に浮いた「心象」を、そのまま正当化するために。
これが欺瞞の始まりだ。

左翼小児病

北大在学中、私には、「泊原発」の反対運動に関わる友人(?)がいた。
彼は社会問題に関心が高く、ナイーブで独善的、つまり典型的な「左翼小児病」であったが、この手の人間の行動傾向は、あの頃も今もちっとも変わってないな、とつくづく思う。

反(でも「脱」でもいいが)原発運動は、すでにエネルギー政策の問題なんかじゃなくなっている。
「政府のいうことは信用できない」というのが、彼らの基本的スタンスであるがゆえ、フツーの人の目には客観性・信憑性が高いと見える公の研究機関の知見は彼らには退けられ、代わりに自称専門家やら胡散臭いジャーナリスト、果てはミュージシャンや(元)俳優、マンネリグルメ漫画の原作者なんかが吹聴する、冗談みたいな妄想・陰謀論の類いを、陳腐な浪花節的ストーリーとパッケージで採用してしまう。
こうなるともはや科学ではない。「信仰」だ。

今は有意な情報がネットでいくらでも得られる時代だ。
たとえば、ICRP(国際放射線防護委員会)により採用された「LNT仮説」ひとつとっても、それがもともとX線とラジウムの被曝から人間を防護するための「政策」で生まれたものであることくらい、私のような門外漢だって知ることができる。

日本が放射線に過剰なまでに敏感になる背景にはおおむね広島と長崎がある。しかし、もっと大きな原因はLNT仮説(直線しきい値なし仮説)を支持し、1950年代に大気核実験に異議を唱(とな)えた善意の活動家にあるかもしれない。LNT仮説とは、放射線はどんなに微量であっても健康に害があるとする考え方だ。
遅ればせながら、そうした問題に関する権威機関の1つ、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)は、かつて擁護していた疑義あるリスク計算式を撤回しようと先頭に立って動いている。

【オピニオン】福島第1原発への理性的な対応妨げる放射線恐怖症http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424127887323410304579070472363568220?mod=wsj_share_tweet

 
上記リンク先の記事はこうも書く。

反原発活動家にとってさらに悩ましいのが、中には最大600ミリシーベルトの被ばくをした人もいる福島第1原発の作業員にさえ、放射線を原因とする疾病が見受けられず、今後発症する見込みもないとUNSCEARが断定したことだ。

「そんなはずはない、今はまだ潜伏期間で、これから必ず疾病は起こる!」
この期に及んで今なお決して「学ぶ」ことをしない、左翼小児病の「患者」たちは、そう主張する。
このエビデンスなき主張が、被災地への「呪い」の源である。

2014年8月20日 (水)

「書く」ということ

優れた描写というのは必ず書き手の意図を超える。計算尽くで書かれていない。翻っていえば、計算尽くで書かれた描写は、その効力を充分に発揮できない。
ロラン・バルトふうにいうなら、作品の書かれた時点ですでに作者は死んでいる。
しかしもちろん、作品は作者が書くのである。
では、テキトーに書いてあとは読者に委ねるのみか?
否。

たとえばそれは「カクテルパーティ効果」で説明できる、と私は考える。
カクテルパーティーの雑談の中で、自分に関わりのある話題だけが耳に届くという、アレだ。

作家は、ある企てをもって「雑談」を仕組むのである。
そしてその企てが何であるかは、作家も事後的にしか知り得ない。
作品を「書く」とは、つまり、そういうことだ。

真実

昔私が勤めていた会社の本社ビルで、何年か前、リストラに悩む社員が飛び降り自殺した。
飛び降りた当人と面識はない。だが建物の〈つくり〉は今でも思い出せる。私がいた頃の同僚たちの顔も。

もともと社員が自殺に追い込まれるような〈社風〉なのだと、まことしやかにいう者もある。だが、〈社風〉がどうだか、これは主観の領域の話で、一概に言えない。 蓋然性が高いというなら、対照群と比較した統計的な数字が要る。

かつて社員であった私がその立場で思うところを述べるのはもちろん自由だろう。個人的には「思い出」をさっ引いても、べつにおかしな会社だとは思わない。だがそれだけだ。私の語りうることはごく限られている。たった数年勤めただけのヒラ社員が、社内事情の詳細に通じているわけもない。

***

「集団的自衛権」にかんし、何やら元自衛官の肩書きで、妄想に彩られた怪文書の類いを流布する者がある。
鵜呑みにする方もどうかと思う。なんと盲目的な「権威」主義だろう。情報に対するリテラシーのなさ、学習能力の低さには呆れるばかりだ。

組織の一員であったという「事実」は、その事実以上に、「推測」の言葉に特別な付加価値を与えやしない。“冷めた”事象の積み重ねによってしか「真実」というものには近づけない。帰納的かつ演繹的な丁寧なアプローチの先にようやく、それはぼんやり輪郭を現すのみだ。

私はいま、うんざりするほど当たり前の話をした。

 

前提/方法

そもそも誰一人「戦争したい」などと思ってない。そんなのは「大前提」だ。
だが、こちらが望まぬ事態が、向こうからやってくることもある。想定しうるリスクをいかに小さくし、最悪の事態を回避すべきか。その「方法」の話をしているのである。
提示された「方法」が間違っているというなら、その理由とともに、べつの案を提示すれば良い。それもせず、ただひたすら「大前提」を情緒的に強調することで、おのがイノセンスを担保しつつ、議論を無効化できると高をくくっている、そんな幼稚な大人が多すぎる。
少しは真面目に考えろと言いたい。
「考えている」というだろう。だが、〈考える〉というのは、刻々と変わりゆく状況に目配りしつつ最善の選択をプラグマチックにすることであり、しかつめらしい顔をして旧態依然とした陳腐なガキのポエムをつぶやいて見せることでは、決して、ない。

高架化前の札幌駅の風景

まったく違和感が、ない。
札幌駅の踏切が手動だったのも覚えている。
年とるわけだよ…。


2014年8月19日 (火)

オールナイト・フジ

若者よ、これが「オールナイト・フジ」だ!
このグダグダ感…。 今見ると、出演者全員正座させて説教してやりたい気分だ。  
熱心な視聴者だったかといえば、実は、ほとんど見ていないのだけれど、当時の「女子大生」像といえば、概ねこんな感じ。 なので、実際、自分が大学生になったときには、同級生の女子に対し「違う。こんなの女子大生じゃない!」と思ったものだ。  
この動画は85年のものらしいけど、調べてみたら番組は83年から91年まで放送してたらしい。わりと最近(?)までやってたんだね。  
83年といえば、浅田彰の『構造と力』が出た年。
その3年前に、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が文藝賞を受賞している。 そういう時代。

思考態度

「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない。」
チャーチルが言ったとされる言葉だが、「知能が足りない」というよりも、おのが20数年の人生経験を、今、目の前にあるリスクの実際的な解決に活用するつもりがない、その怠惰な思考態度が蔑まれるべきなのだ。

2014年8月18日 (月)

主体

「レジ袋、おつけしますか?」問題(?)の主体について。
  〈おつけ〉するのは「店員」なのか「客」なのか?

スーパーの「お客様の声」の掲示板に以下のような“クレーム”があった。
  『「おつけ「いたし」ますか?」という店員がある。だが、〈いたす〉は謙譲語なので、不自然ではないか』

クレームの主は、「客主体説」を採っているわけだ。レジ袋をつける/つけないの判断は客が下す。このことに重きを置いている。
だがもし、上記店員が「店員主体説」の立場であるならば、(過剰敬語の問題はひとまずおくとして)「おつけいたしますか」はべつに不自然ではない。「おつけいたしましょうか?」とでもいえば、省略された主語はさらに明確になる。つまり店員は、レジ袋をつけるという「行為」に重きを置いている。

ま、ど-でもいいのだが、こんなクレームにも、いちいち対応せねばならん店長さんは、たいへんだな。

2014年8月17日 (日)

かけがえのない

私の思い入れは、私にとってはかけがえのないものであるが、他者にとってもそうであるとは限らない。というか、全く無価値であるケースがほとんどであるというアタリマエを再認識する必要。

2014年8月15日 (金)

美談

高校野球がらみの「美談」が昔から大嫌いだ。
非常に安易な物語化。
単に好き嫌いの問題を善悪に変換するのも気持ち悪い。
なぜ彼らはこうも陳腐な俗情との結託を図りたがるのか。

リアリティ

虚構内のリアリティというのは、それが〈現実〉に起こったことか否かで決まるのではない。

2014年8月14日 (木)

シモベ

創作が批評に先行するというただそれだけの理由で、前者が後者より優れているなんて決して言えない。現実に材を取った創作が、現実の下部じゃないのと同じ。

方法

〈内容より方法〉という言い方は、ある文脈においては、依然正しいのだ。
実存主義的に「内容」を追及することが是とされた風潮の中、カウンターとして「方法」の優位が説かれたわけだが、これがなまじカッコイイ(気がした)ので、とくに若者は「方法」至上主義に傾いてしまう。
これが〈中身がない〉と、批判の的となるわけだけれど、それでも方法に無自覚であるより、よほどマシであると思う。

ウリモノ

小説を読んでて嫉妬するのは、人物の関係の設定を「地の文」でさっくり処理できてしまうとこ。
むろん芝居だってモノローグという方法はあるし、ナレーション使ったり、映像による処理も珍しくはなくなった。だが、私のような作風つまりかつて〈関係性の演劇〉とよばれた部類の会話劇で、関係性を「説明」してしまったら、ウリモノが何もない。

2014年8月13日 (水)

執筆モード

「脱稿!」と思っていたが、読み返すとやはり相当な「工事」が必要だな、と。
そんなわけで再び執筆モードに。
そこそこの年数書いてきて、なかなか上手くはならないが、それでも経験から言えることは、「いいものが書けた」という脱稿直後の「実感」など、まるでアテにはならないってことだ。高揚感と自己陶酔でテクストに対する目が曇っている。だから「徹夜で書き上げました!」なんてのは、実は何の自慢にもならなくて、むしろたいてい、なるほど「徹夜で書き上げた」程度にしか、書き上がっていないものだ。
わりとテクスト論的立場に立つ私は、作家のガンバリなど、1ミリの価値も認めない。

2014年8月12日 (火)

広義

結局、朝日的な人らがいう「広義の強制性」の「広義」とは、自らの掲げた主張にむりやり整合性を持たせんがための、自分勝手な解釈の「広さ」に他ならない。

The Beatles - "1967-1970 (The Blue Album)" (2010 Remastered) [Full Album]

 

01. 0:00:00 "Strawberry Fields Forever"
02. 0:04:07 "Penny Lane"
03. 0:07:10 "Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band"
04. 0:09:08 "With a Little Help From My Friends"
05. 0:11:56 "Lucy In the Sky With Diamonds"
06. 0:15:25 "A Day In the Life"
07. 0:20:33 "All You Need Is Love"
08. 0:24:21 "I Am the Walrus"
09. 0:28:57 "Hello, Goodbye"
10. 0:32:27 "The Fool On the Hill"
11. 0:35:27 "Magical Mystery Tour"
12. 0:38:16 "Lady Madonna"
13. 0:40:35 "Hey Jude"
14. 0:47:46 "Revolution"
15. 0:51:14 "Back In the U.S.S.R."
16. 0:53:59 "While My Guitar Gently Weeps"
17. 0:58:45 "Ob-La-Di, Ob-La-Da"
18. 1:01:57 "Get Back"
19. 1:05:09 "Don't Let Me Down"
20. 1:08:45 "The Ballad of John and Yoko"
21. 1:11:46 "Old Brown Shoe"
22. 1:15:07 "Here Comes the Sun"
23. 1:18:15 "Come Together"
24. 1:22:34 "Something"
25. 1:25:38 "Octopus's Garden"
26. 1:28:31 "Let It Be"
27. 1:32:23 "Across the Universe"
28. 1:36:13 "The Long and Winding Road"

ミヤネ屋 従軍慰安婦問題

2014年8月11日 (月)

BACTERIA『Heavymetal Man』

2014年8月10日 (日)

Pantera『Walk』

Megadeth『A tout le monde』

Eight Wonder『I´m not scared』

宇多田ヒカル『Automatic』

布施明『君は薔薇より美しい』 

System Of A Down『Aerials』

1000say『LOSTMAN』

The Cardigans『Lovefool』

2014年8月 9日 (土)

The Roosters『Sad Song 』

専門性

演劇人が専門性を発揮できるのは「演劇をする」というこのただ一点だけだよ。当たり前だが。べつにコミュニケーション能力に長けているとか、そんな蓋然性はない。

BiS『IDOL』

The Cardigans『Rise & Shine』

レッテル

相手に勝手なレッテルを貼り、それに基づき鼻息荒くされたところで、「言葉」の信頼度を低下させるのに与するのみだ。昨今の左巻きの劣化はこれに尽きる。

卑怯者

卑怯者というやつは、客観的判断不可能な「主観」の領域に話を引きずり込み、やれ「人間性」だとか「優しさ」だとか、中学のホームルーム的「正論」を盾に相手を貶め、勝手に勝利宣言する。

2014年8月 5日 (火)

腐りきっている

吉田清治のトンデモ本に依拠して記事を書いたことは認める。(大々的なキャンペーンを張ったことには触れず)

→しかし当時嘘を見抜くことは困難であった。他社だってやっていたんだから我が社だけに非があるわけではない。

→『しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と発言。一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。』

と、この期に及んで被害者ヅラか。何が何でも「安倍が悪い」といういつものロジックが透けて見える。
この会社、とことん腐りきっている。
http://www.asahi.com/articles/ASG7L71S2G7LUTIL05N.html

傲慢の極み

この朝日のウソを指摘する行為を「右傾化」とよんで言論封殺しようとした左巻きどもの顔をよーく記憶しておいた方がいい。

2014.8@北大

久しぶりの北大。やはり無駄に広い!
「クラーク像どこですか?」と、観光客に聞かれてしまった。あと、「ポプラ並木」のありかを在学中にはしょっちゅう尋ねられたもんだった。
中央ローンに流れている川が「サクシュコトニ川」という名だと知ったのは、つい最近のこと。

0132

0152

0102

2014年8月 2日 (土)

不条理劇

原発の問題にせよ、集団的自衛権の問題にせよ、「命が大事」なんて大前提なんだよ。そのためにどういう選択が最適かって話をしてるんだ。それを「いいえ、命は大事です」じゃ、不条理劇にもなってない。

保守

「人類の記憶」なんてものはないんであって、仮に歴史が弁証法的に発展するとしたら、「制度」として継承されるよりほかない。もともとの動機だったり本来の趣旨は長い年月の内に忘れられ、やがて形骸化するもんだけれど、そこにはそれなりの「意味」があったんだろうと推測できる。その蓋然性のもと、時の堆積を尊重してやることに合理性を認めるやり方が、いわゆる「保守」というもんだ。

2014年8月 1日 (金)

下品

思想信条を同じくする者の溜飲を下げる。そんな目的で戯曲を書くなどという下品なことだけはしたくない。

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