カルタ
「浅間のいたずら 鬼の押し出し」
「鶴舞う形の群馬県」
上毛カルタを知らぬ群馬県人は一人もいない。
ほんとうに一人も。
子供の頃、これが全国でやられているもんだと私は思い込んでいた。
その土地にちなんだカルタがそれぞれの県で、というのではなく、百人一首のように、「上毛カルタ」が日本全国に普及しているのだと思っていた。
「こんな群馬のことばっかで、よくよそから文句が出ないもんだなあ」と、不思議に思いつつ、奇妙な優越感を抱いていた。
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演劇とはかくあるべし、という決めつけに、私が反論しないのは、意見は意見として尊重する、などという殊勝な心がけからではなくて、日本の現代演劇の、せいぜいここ十数年の潮流すらも知らず、したり顔で化石みたいな演劇観を語る厚顔無恥に、いちいちつきあってられないからだ。
無関心=悪、というのも通俗的な二元論。全否定はしないけれども、関心持てばいいというものじゃない。間違ったやり方ならばむしろ害悪であるということくらい、さすがに「美味しんぼ」騒動で学びそうなもんだが、ドグマにはまった者には、こんなことすら理解できない。
出盛りの頃には、何だこりゃ、って思ったもんだけど、今や飛ぶ鳥を落とす勢い。
本格的なバンドもついて、ここまで洗練されちゃった。
本人たち、メタルに思い入れがないのは丸わかりだけど、いいんだべつにそんなこた。
ただ数年後に「あれはやらされていたんです」とか、くだらんことをどうか言い出さないで欲しい。
『「事故後、鼻血の症状が現れたのは事実。国会でも当時は野党だった森雅子さん(現消費者相=49)、山谷えり子さん(63)らが鼻血に触れている。まさか心ある自民党の議員さんたちが国会内でデマをふりまいたわけではないですよね?」と皮肉交じりに指摘。』
三年間で学んだか、何も学ばなかったかの違いだろう。
マンガ騒動で何が争点なのかもいまだ理解しないこのバカはむろん後者であるが。
「鼻血」なんか鼻ほじれば出るのだ。問題はそれが放射線由来か否か。「鼻血」の現象を強調することに何の意味もない。それがわからぬほどのバカは、実は、そうはいないだろうと私は思っている。
イデオロギーのために論理を捨てているのだ。
この構造は「従軍慰安婦」とそっくりだと感じる。そもそも強制連行の有無が争点であったのが、誰も否定なんかしていない慰安所の実在を強調することで、情緒的・道義的な問題へと論点をすり替え、反論を許さぬ「空気」を作り上げる。
左巻きはそれが「正義」だと思ってるようだが、主義主張はともかく、こういう独善的でキタナイやりかたをしていれば、むしろ真実を隠してしまうし、よそに「犠牲者」が出るのだ。
今回のマンガ騒動がそのいい例だ。
震災直後のファナティックな世論を今の視点で正当化も卑下もしな
「美味しんぼ」レベルの事実認識に基づいた演劇がいくつも作られ、実際そのいくつかを私も目にしたが、それもまあ
だから、こっそり立ち位置を修正するのには目をつぶ
しかし三年経ってなお、あんな妄想マンガの是非が真顔で論じられてる状況じゃ、基準の適正化なんかとてもできやしないだろう。またも語られるに違いない幼稚な陰謀論や姑息な論点のすり替えを想像しただけでうんざりだ。
そもそもエネルギー政策の問題を、過激派なんぞとつるんでイデオロギー闘争に使ったクズどもが、復興を妨げる元凶だが、クズゆえに反省する気配もなく、馬鹿が集ってさらに愚かさ濃縮させるばかりだ。
「低線量被曝が原因で鼻血が出ることは、科学的にはありえない。大量被曝した場合は血小板が減少するため、血が止まりにくく、鼻血が出やすくなるが、血小板が減るのは(がんの死亡リスク上昇が確認されている100ミリシーベルトの10倍にあたる)1千ミリシーベルト以上の被曝をした場合であり、それ以下の被曝では影響がない。」
「もし低線量被曝の影響で鼻血が出るのだとしたら、一般の人々より被曝線量の高い放射線技師や宇宙飛行士は鼻血が止まらないことになる。」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140512/dst14051222400016-n1.htm
もはやこんなのほとんどジョーシキなわけだが…。
バブル全盛の時代にもマルクス主義的な左翼は細々とだが存在して
イデオロギッシュな連中が、おのが「主張」のために事実を曲げて「穢れ」を創作し、そこに暮らす人々に、かように実害を及ぼし続ける。
主人公が「俗情との結託」(大西巨人)をすることで、作品のメッセージ=イイタイコトを正当化する芝居は、端的にいって、下品だと思っている。
最低限、論理的な思考様式を身につけた人でなけりゃ、そりゃ、い
もうギターの上達は諦めたので、せめて、雑談しながらチューニングを合わせるという、あの余裕あるげなとこだけ習得したい。
〈友達の付き添いでオーディションに行ったら自分の方が受かっち
芝居の夢はたいてい、作家・演出家としてなのだが、ついに制作と
小保方ノートの「内容」については、私はまるで知識がないからわ
今年秋の公演に関して、ホンは、推敲の余地はあるにせよ、一応書き上がっているし、キャストも揃い、チラシもすでにできている状態で、別段不安要素はない(チケットの売上を除いては)のだけれど、今日も芝居の夢を見た。
劇場に、客席と屋根がない。
私はしかし動揺しなかった。テキパキ指示を飛ばして客席にビールケースを並べ、頭上にブルーシートを張らせた。
「舞台はどうします?」
「何?」
「役者は。雨が降ったら」
「…。傘をさせ。そういう演出だ!」
目が覚めて、実際、去年の春頃に、そんなことを言った覚えがあるな、と思う。
もしも自分が、いわゆるアングラ第一世代に青春を送っていたら、
『太田昭宏国土交通相は「言論の自由は大事だが、福島に住んでいる人の心情を理解する必要がある」と指摘。』
http://www.47news.jp/CN/201405/CN2014051301001444.html
違う。そういうことじゃない。それじゃあ〈福島の人が“気の毒”だから、福島産の食材も鼻をつまんで食おう〉みたいなことになる。瓦礫処理の問題もそう。そういう「浪花節」の話じゃなくて、「鼻をつまむ」必要なんか何もないんだよ。これは科学的知見に照らし合わせて明白な「事実」なの。そういう争点がわからないようなら、公権力はこの問題に口出しすべきじゃない。「言論の自由」の文脈で、馬鹿な左巻きを増長させるだけだ。
主人公が「俗情との結託」(大西巨人)をすることで、作品のメッセージ=イイタイコトを正当化する芝居は、端的にいって、下品だと思っている。
俳句はレティサンスの塊。
何かこれは普遍的にピュアなもんであるという、そういう思い込み
もっとも、それが過ぎて懐疑論的隘路にはまりこむのは本末転倒だけれど。
絶対なものなど、ない。と口にするとき、その命題すらも「絶対」
最低限、論理的な思考様式を身につけた人でなけりゃ、そりゃ、い
手売りチケットの逆説的な他者性。
喜劇において「笑われる」って最高じゃないか。少なくとも「笑わ
〈友達の付き添いでオーディションに行ったら自分の方が受かっち
芝居の夢はたいてい、作家・演出家としてなのだが、ついに制作と
“リベラル”などと言いながら、己の主義主張に沿ったものにしか
「昔はよかった」みたいな言説は、記憶が美化されているためだと言
就職内定したけど卒業単位がギリギリで、「先生、ひとつなんとか」と教官室で頭を下げる女子学生に、「僕に永久就職すればいいじゃないか」というのはパワハラか?
女子学生が目を潤ませて教官にお姫様だっこでもされりゃあ「愛と青春の旅立ち」的ハッピーエンドだが、青ざめた顔で教官室を飛び出せば、訴訟問題だ。
かように「物語」というのは〈交換可能〉なんだよ。そして「現実」とされているものも、言葉で語られる以上、「物語」だといえるわけ。だから「真実」に近づこうとすればそれなりの〈手続き〉がいるんだよ。
一方で、人格改造すべしという「向上心」という名の強迫観念と、
一時期ナンバーワンよりオンリーワンみたいなことが言われたけど、それが自己肯定的な響きを持つのはjust the way you areみたく解釈をするからで、ホントにonlyであろうとするなら、膨大な他者との差異を積み重ねなきゃらならず、めちゃくちゃツライ。
ツライけれども創作に携わる以上、「個性」ってそういうもんだという認識と覚悟は必要だろうね。
結論ありきでものごとを見ると、あらかじめ己の設定したフレームに合わせて現実の方を歪め、科学的蓋然性との齟齬は陰謀論で済ましてしまう。このザツな思考を党派性が擁護し補強する。
それこそが「危険」であると彼らは気づかないのか?
気づかないならバカであり、気づいて態度を改めぬなら卑怯者だ。
一方で、人格改造すべしという「向上心」という名の強迫観念と、また一方で「そのままの君でいい」的な全肯定の飴と鞭。
どんなに優しいふりをしたって人間は残酷な生き物だ、という「告発」。 で? って話だ。 そんなわかりきった「告発」で、自分だけが何かを免れると思っているところが愚かで卑怯なんだよ。
一般に「感動しやすい」性癖は、感受性豊かなどと持ち上げられるものだけれど、少なくともモノカキにとっては、決して喜ばしい資質じゃない。「書く」ということは、とりもなおさず、最初に自分が「読む」ということであり、その際のハードルが低いということに他ならないから。
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