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2014年4月

2014年4月25日 (金)

トラスト・ミー

あの「トラスト・ミー」が、食事を勧める際の発言だったと言い出す始末の鳩山元首相。「普天間の移設先を辺野古にするからトラスト・ミーと言ったつもりは全然ない。勘違いなのに批判され、怖いなと思った」。
バカだバカだと思っていたが、さすがにここまでとは思わなかった。これを民主主義の手続きの下、日本の首相にしてしまったのである。私はそれが「怖い」と思う。


 
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140425/stt14042511090006-n1.htm

ぬくぬく

ぬくぬくと党派性の毛布にくるまれてカラッポ頭がつぶやく「革命」。

青春

今度の座組は平均年齢がやや低め。
平成生まれの女優は娘であってもおかしくない。

 
  「青春」の定義はいろいろあろうが、68年生まれの私は二十歳前後の頃、ポストモダンのその先に、いったい何を見ることになるのだろうという“トキメキ”があった。
しかしこの十数年間で、私の「青春」は裏切られた、という思いがある。
あの当時、時代の寵児と目された者たちの、先祖返り的な左旋回と、それに引き摺られるようにしてゾンビのように蘇ったマルクス主義的風潮。
何より、そんな単純で古くさい世界観を無批判に受け入れる、同じ「青春」にいた者たちの馬鹿さ加減に心底失望したのだ。

だめだこりゃ

某社会派の芝居の開場を待つ列で、「犯罪なくすには警察をなくせばいい。なぜなら警察があっても犯罪は一向になくならないから。」ってことを真顔で言ってるオッサンを見たときは、どこからか「だめだこりゃ」っていう、いかりや長介の声が聞こえた。

思い上がり

心情左翼的な「思いやり」は多かれ少なかれ誰にだってある。マトモな大人はそれを括弧に入れて合理的判断に努めている。それが「公共」というものだからだ。一面的な善悪の価値判断で、自分(ら)だけが心優しく、その他の者は冷酷などという党派的決めつけは、思考の怠慢による思い上がりだと知れ。

2014年4月24日 (木)

必然

映画監督から、編集済みでいらなくなった8ミリフィルムのひとコマをいただいた。
切ったはいいが捨てられず、空き缶いっぱいにとってあるのだという。
私はなんとなく、フィルムの切れ端を電球の光にかざし、ハッとした。
何が映っていたか、が問題ではない。
この一連のよくある身体所作の必然を、自分の外側から演出家の目で発見したのだ。

2014年4月23日 (水)

オリジナリティ

ソシュールのいうラングの共時性を説明する文脈で、丸山圭三郎のした〈「饅頭」と「風船」〉の喩え話を、私は浅田の『構造と力』経由で知った(ということが今調べてわかった)のだが、印象に残っていたのは、箱の中で互いに排斥し合う風船の力学的なイメージだけで、それが何の比喩であるかは忘れてしまっていた。
忘れたままで、イメージを勝手に拡大解釈し、しばしば己の世界観の説明に使用しちゃってゴメンナサイなのだけれど、考えようによっては、これが私のオリジナリティってもんではないかしら?

2014年4月22日 (火)

カルト

“意識高い”連中はことごとく、まっとうな科学的知見を陰謀論によって退け、代わりにオカルトめいた似非科学を採用する。思考の足腰が弱いので、「悪」を外部に特定するに都合のいいわかりやすい「物語」を好む。己の信念を疑う余地はない。周りを見てもそうなのだ。類は友を呼び、朱に交われば赤くなる悪循環。カルト宗教の構造と一緒だ。
人を不幸にしかしない「運動」なんか何の価値もない。

えんがちょ

ロジックを欠いた印象操作で「運動」が継続するわけがないし、参加者の自己満足以外に何の成果ももたらさない。単なるお祭り騒ぎだ。

以前こういう記事を書いた。
http://kazutakaimai.cocolog-nifty.com/kazutakaimai/2014/02/post-b6fb.html

“えんがちょ”されたいじめられっ子に「つらいだろうね、同情するよ」と“やさしく”手をさしのべる“意識の高い”人。
続く言葉はこうだ。
「こんなバイキンまみれにされてしまって!」
ありもしない事実を上書き保存し、イジメで苦しむものをさらにイジメて苦しめる。
いったいこいつら何がしたいのだ?

利用

権力の問題、政治権力の問題を統治性という問題の中に置いて考え直し、権力関係の流動的で、変更可能で、可逆的な側面に注目するならば、統治性という概念は主体という要素を理論的にも実践的にも経由せずに済ますことはできない。この場合主体は自己の自己への関係として定義される。-主体の解釈学-

で、小狡いやつはフーコーの言説をも利用して、「無意識を操られてるかあいそうなぼくら/操ってる悪人」の構図に持ち込み、漫画チックな陰謀論を展開するのだが、40過ぎた大人が、バカ過ぎる。もう金輪際、「ゆとり」がどうとか口にするな。恥ずかしい。

欲望

ポメラからflashairを使ってEvernoteに投稿できる、ということは知っていた。
知っていたから、結構なお金を出して、flashairを買ったのだった。これさえあれば原稿が捗るに違いない、と。
もう一年前くらいだったか。でも結局、やり方がわからなくて、諦めていたのだった。「わからない」というのは、要するに私が、Wifiつうもんを全然理解してなかったのだ。

今でもwifiの何たるかはよくわかっていないのだが、それでも最近タブレットを使うようになったので、手探りで、否応なしに少し学んだ。
で、居間に飛んでるhome wifiに、今日とうとう(不安定ながらも)接続成功!
ポメラのファイルがEvernoteに投稿できた! すごい!
ついでにテザリングもできるようになり、これで、どこからでも投稿できる。

しかし、こういう「通信」とかはとりあえずいいから、電源入れたらさっさと立ち上がり、サクサク動いて安定している、往年の“ワープロ”感こそが魅力でそもそもポメラを買ったはずだった。
人の欲望は尽きないね。

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2014年4月21日 (月)

社会

社会派を自称する劇が、相も変わらずマルクス主義的な権力/反権力の単純な二項対立に依って立つとき、そのことじたいがすでに「社会」を描けていない。今どきそんな作品をありがたがるのは、イデオロギッシュな同調者か、なんとなく大文字の問題を語りたい盛りのガキだけだ。

2014年4月17日 (木)

人権派

自称人権派の左巻きが首相に「しね」とか人権侵害丸出しのこと言って炎上してるわけだが、まあ、言葉の揚げ足取りはともかく、この手の連中のいう「人権」が、自分とイデオロギーを同じくするものにしか適用されない欺瞞に満ちたものであることはよくわかる。彼らにご高説を賜ると、説教強盗に遭った気分になる。

2014年4月16日 (水)

フェーズ

好き嫌いの話をしているのに、これこれこういう利点があるとか説得されても困る。じゃあおまえはその有用性を愛しているのか、と。
でも日常会話においてはこういうフェーズのズレというのはしばしば起こり、それを温存したまま意思疎通が図られるものだ。ここに、関係性の面白みを見いだし、描写を成功させたのが現代口語の功績。

思考の足腰

「だからといって、ない、とは言い切れない」的な、懐疑論につながる文脈に自分が嵌まりかけたとき、「あ、これ、ヤバイやつだ!」と気づけるか否か。そういう思考の「経験」を積んでるかどうかを、私は“思考の足腰”と呼んでるわけ。  

2014年4月15日 (火)

最近続けて芝居の夢を見る。
昨日は、私が役者をやっているらしい。小屋に向かって歩いていると、すでに開場時刻を過ぎており、タクシーを拾おうとするのだが、どれも客を乗せていて止まってくれない。急いで行こうと脚に力を込めるのだけど、ちょっとずつしか進まない。
開演時刻を過ぎた。
布団を蹴り上げて目が覚めた。

2014年4月14日 (月)

正体

〈浅田や中沢の影響を受けた“80年代の若者たち”自身も、次第に年をとっていく中で、いつまでも自らの居場所(アイデンティティ)を定めずに、近代的な労働主体としての生き方を回避し続けることに疲れてきた。どこかに、安定した着地点を求めたくなる。しかし、不況の中でのリストラが続いているため、かつての“現代思想少年”たちが望んでも就職できないという現実があらわになると、今度は若者たちを不安定な立場に置きながら成長を続ける「市場原理主義的な経済」や、そうした苛酷な経済状態を温存しようとする「新自由主義的な国家」に対して、怒りの矛先が向くようになる。そのため、かつてのマルクス主義が描いていたような、きわめて単純に二項対立的な「権力/反権力」図式が部分的に復活してきた。(『集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』仲正昌樹)〉

この10年くらい、私が同世代人に対しずっと抱き続けていた違和感の正体が、これだ。こんなふうなストーリーで説明されるとすごくよくわかる。

2014年4月13日 (日)

後悔

いわゆるマル経で、宇野派のゼミだったのだが、時はバブル真っ盛り。「今どきこんなん何の役に立つっつーのよ?」という気分だったが、「20年後にわかる!」と先生は宣言した。20年後なんて生きてるかどうかもわからねーし、と思ったけど、生きてるし、ちゃんと勉強しとくんだったと後悔している。

旧態依然

現実と虚構とはパースペクティブが異なる。ホントにされた会話をまんま舞台にのっけてもリアリティは得られない。
ここまではいい。
じゃあ我々は旧態依然としたエンゲキの方法論でいくしかないのか?
むろん答えはNOだ。
その際参照先を「現実」に求めるのは有効なんだ。
矛盾に聞こえるかもしれないが

不寛容

自分の見聞きした経験こそを「真実」と思いたいのはヤマヤマだが、んなもんせいぜい事実の一側面に過ぎないのだ。ちったあ自己相対化してみるがいい。そもそもどこかに動かぬ普遍的真実が存在するという世界観が間違いなんだ。

単細胞

せっかく見所のある保守系の言説が出ても、それに群がる右翼的な単細胞が褒め殺してしまうんだものなあ。

文房具

大昔、はじめてマッキントッシュを買った頃は、これ一台であんなこともこんなこともできる、すげーすげー、とPC“そのもの”を面白がったもんだが、今は、少なくとも私にとっては、単なる文房具。

センス

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというけど、袈裟に坊主のセンスが反映されているなら、それも当然でしょって思う。

2014年4月12日 (土)

リアリティ

現実と虚構とはパースペクティブが異なる。
ホントにされた会話をまんま舞台にのっけてもリアリティは得られない。
ここまではいい。
じゃあ我々は旧態依然としたエンゲキの方法論でいくしかないのか?
むろん答えはNOだ。
その際参照先を「現実」に求めるのは有効なんだ。
矛盾に聞こえるかもしれないが。

2014年4月11日 (金)

台湾

台湾学生による立法院占拠がニュースとなる中、仕事で台湾に行ってきた。

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羽田空港は雨。

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台湾も雨だった。日本と一時間の時差。

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「仕事」というのは児童劇の演出だ。旅公演に合流。会場は国府記念館。

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2400のキャパだという。正直、芝居をするには広すぎる。扇形の客席は、舞台中央に注目するよう設計されており、袖付近の芝居が見にくい。
なかなかそこまで視野に入れての芝居作りはできないし、客席の配置を工夫するにしても、現地側としちゃ、蓋を開けてみるまで芝居の詳細はわからないし…。

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空き時間に台北の町を散策。デパートの中はまるで「新宿」。

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とくに“騒動”の影響は感じない。

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そんなわけで、3泊4日の短い滞在であった。

『高橋亨平先生の思い』玄侑宗久

「自分でも、何のためにこんな苦しみに耐える必要があるのかと、ふと思う時がある。しかし、この地域に生まれてくる子ども達は、賢く生きるならば絶対に安全であり、危険だと大騒ぎしている馬鹿者どもから守ってやらなければならない」

http://www.genyusokyu.com/essay05/text06/rondan50.html

反原発でも脱原発でもどっちでもいいが、そういう考えそのものを、べつに私は否定しない。
だが、おのが“崇高”な目的=イデオロギーのために、事実を歪め、デマを吹聴するという、最も安易かつ卑劣な文脈上の「運動」など、決して認めるわけにはいかない。

2014年4月10日 (木)

中腰

プラグマティックであることは「中腰」であり続けるようなもんだ
状況によっては腰を伸ばし、またある時にはしゃがみ込み、玉を拾わなきゃならない。
党派性寄りかかることなく。
「中腰」を続けるのはしんどいが、「個人」であるためには当然引き受けなきゃならないコストだと思っている

ごっこ

たとえば「戦争反対」といえば文句は出ない。
戦争なんか誰だってしたくない。
このアンガージュマンごっこは「安全」だ。
しかしそれでは「ごっこ」が成立しないから、誰かが戦争「したがっている」と見なす。
このレッテル貼りが本来の争点を見えなくしてしまい、なされるべき対話を阻害する。

俗情

専門知識もないままに会見をテレビで見て、「痛々しいな」「可哀想」と俗情に傾く。
その後、彼女の同業者の冷ややかな指摘、整合性ある論理に「なるほどなあ」と気持ちが揺れる。
この「揺れ」。
芝居のホン屋なら、自分の中で起こるこうした現象こそを観察し、捕獲すべきなんだと思っている。

体験

「自分だけの特別な体験」と思っていることも、間主観的な「物語」に過ぎないのではないか。少なくとも感情のレベルでは。
当事者にしかわからないことは、実は、当事者にもわからないのだ、という気が最近している。

藁人形

ありもしない危機をあたかもあるように語り、いわば藁人形論法的に、おのが「正義」を主張する。これの何が“社会派”か。あんまり笑わせんな。

プラグマティスト

日本的伝統の「外部」にアイデンティティを求め、アカハタ的理想を標榜するくせに、テメエの財布に直結する問題に関してはプラグマティスト。

2014年4月 8日 (火)

脱臼

たとえば金井美恵子の高度にコントロールされた長い長~いセンテンスが教科書的に端正な「読み」を脱臼させるのと、単に頭の悪いガキの文章とでは、当然、まったく違うから。

憑依

役が降りてくるとか、「憑依」するような感覚は、とくにロングランでは確かにあって、その都度演技プランが「更新」されていく。いいのだ、それで。逆にそれがないと、「慣れ」が予定調和を補強して、そこから芝居が腐っていく。

2014年4月 3日 (木)

アイデンティティ

有名な誰々と仲良しです、かわいがられてます、みたいなのをアイデンティティにしてる自称劇作家がいるが、そんなんだったら辞めちまえと思う。なんだその付き人根性は。

勉強

偏差値教育がどうだとか、四の五の言わずに勉強しとけ。役に立つかどうかは自分次第。つか、何でも有用性に回収されると思ったら大間違いだ。

知恵

三人寄れば文殊の知恵というけれど、バカが徒党を組んで互いに共通の価値観を上書き保存し合うだけなら、「知恵」など出てくるわけがない。

厄介

言葉の厄介なところは、意図せずとも必ず何かを指し示してしまうところ。

2014年4月 1日 (火)

寄り添う

「福島の子供に寄り添う」とか平気で言うわけ。テメエで差別を助長しながら。
自分たちの主張に同調しない悪い政府と悪い国民たちの犠牲になって、“可哀相”な“フクシマ”の子供(子ども)は今も放射線に蝕まれている、という「物語」。
イデオロギッシュな連中に特有の単純な敵味方の二項対立、独善的で属人的な判断が問題の本質を見えなくするのだ。

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