材料
会社辞めたとき、やたらお節介焼いてくる上司がウザくて、冷ややかな対応で突き放したが、何が当時私をあんなに苛立たせたのかと考えてみると、彼の「俺って文化活動に理解ある、部下思いのいい男」という自己陶酔の“材料”に使われてると感じたからなんだな。
彼は当時主任。今は部長くらいには偉くなってるだろうか。どこかで再会したら今度はうまくやって、チケット100枚くらい買わせたい。
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会社辞めたとき、やたらお節介焼いてくる上司がウザくて、冷ややかな対応で突き放したが、何が当時私をあんなに苛立たせたのかと考えてみると、彼の「俺って文化活動に理解ある、部下思いのいい男」という自己陶酔の“材料”に使われてると感じたからなんだな。
彼は当時主任。今は部長くらいには偉くなってるだろうか。どこかで再会したら今度はうまくやって、チケット100枚くらい買わせたい。
今、日本の大衆社会を語ろうとするとき、「放射脳」の存在は実に示唆的だし、彼らの生み出す差別の構造など、社会派の劇作家が着目すべき問題だと思うのだけれど、その劇作家自身が軒並み放射脳であるという笑えない笑い話。
なぜそういうことになるか? 日本の劇作家はそんなに阿呆揃いなのか?
結局あの連中は徒党を組んでアンガージュマンごっこした
甲状腺がん、福島は他県並み 環境省の比較調査(2014/03/28 20:24 【共同通信】 )
環境省は28日、東京電力福島第1原発事故による福島県の子どもの健康影響を調べるため、比較対象として青森、山梨、長崎の3県の子どもの甲状腺がんの頻度を調べた結果を発表した。「対象者数が違うので単純比較はできないが、福島と発生頻度が同程度だった」としている。
環境省は2012年11月~13年3月、青森県弘前市、甲府市、長崎市の3~18歳の計4365人を対象に、甲状腺の結節(しこり)などの有無を調査。福島と同様の56・5%に当たる2468人に5ミリ以下のしこりなどが見つかったほか、44人に5・1ミリ以上のしこりなどが見つかり、2次検査が必要と診断されていた。
http://www.47news.jp/CN/201403/CN2014032801002318.html
むしろ今さらこれがニュースになるのが驚きだ。
福島との比較対象として青森、山梨、長崎が選択されてるが、「役所の発表は鵜呑みにできない」という一般論を敷衍して、「真実を知らされていない」と陰謀論を語る者や、調査結果から逆に「青森、山梨、長崎まで汚染されている!」と結論づける“放射脳”を目にするにつけ、いい年した大人がこれだけの時間をかけてこのザマかと、その知的水準の低さに呆れ果ててしまう。
やれ「平和」だ「人権」だと口にしたがる“社会派”の演劇人が、こと拉致問題に関しては関心が薄く見えるのはどういうわけか?
「どういうわけか?」などと白々しく書いたが答えは出ている。杉並あたりでよくやってる教科書検定のデモにしろ、国歌国旗の問題にしろ、一連の反原発運動にも、全共闘くずれの過激派が噛んでいる。要するにシンパシーは拉致被害者よりむしろ拉致に荷担した犯人側にあるというわけだ。
こういう週刊金曜日的連中のほざく「正義」など、信用できるわけがない。
新入社員時に勤労部主催の「人権教育」なるものがあった。そこで書かされた作文は、今思えば確かに考えの浅いものだったけれども、「そういうことは専門家でもない者が軽々しく口にすべきでない」という一期上の添削者に対する「何トンチンカンなこと言ってやがるんだ」という思いは今も変わらない。
たとえば今日から月末まで毎日、近所の自販機の釣り銭返却口に指を突っ込んで回ってみるといい。そうして手に入れた総額が、仮に千円だったとしようか。
その千円を、いかなるストーリーで語るか。
今月いきなり釣り銭の取り忘れが増えたとは、フツーは思えないけれど、その可能性がゼロであるとも、言い切れない。なにしろ他の月と比較しようにもデータがないのだから。
データがないのをいいことに、この「千円」現象を、4月から上がる消費税に絡めて「物語化」することも、できなくはない。牽強付会と思うだろうが、そこそこ筆力ある詭弁家ならば、それなりにまことしやかなストーリーに仕立てるだろう。
現にその手のデマ屋がマスコミ界隈に跋扈している。
『「報ステ」は「福島の33人の子供が甲状腺がんになっている」というタブー視されてる事実を大々的に特集! 甲状腺がんと診断された母親に古舘伊知郎氏自らインタビューし、さらにチェルノブイリとの比較や、がんの疑いのある子供への福島県立医大の対応についてもキッチリ苦言を呈した。(2014年3月23日(日)10時26分配信 日刊ゲンダイ)』
多くの批判に晒されたあの報道が、「ゲンダイ」にはこう見えるらしい。
だって古館と日刊ゲンダイじゃん、などと侮るなかれ。
こんなレベルの元俳優が国会議員になった例もあるのだ。
福島の甲状腺がんが他地域に比べて決して多いわけではないことは、すでにわかっているし、そもそも甲状腺がんの検査は「異常」を感じてはじめて受けるものだったのだから、「増えた」のでなく「顕在化」したと考えるのがフツーだ。
これが理解できぬようなら、科学云々以前に国語力の問題だ。義務教育からやり直せ。
http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/gendai-000206887/1.htm
http://www.asahi.com/articles/CMTW1403180700001.html
給食に地元食材 母ら「使わないで」(2014.3.18 朝日新聞)
●いわき市長へ6800人分の署名提出
いわき市の母親らでつくるグループが17日、子どもを内部被曝(ひばく)から守るためとして、学校給食で地元の食材を使わないよう求める約6800人分の署名を清水敏男市長に提出した。市は新年度産のいわきのコメを給食に使うことを検討しており、市長は「どういうやり方がいいかを学校や地域の皆さんと考え、総合的に判断したい」と応じた。
市内の市立小中学校ではかつて食材品目の約30%が県内産だったが、原発事故後の現在はタマネギやナメコといった野菜など約2・6%にとどまり、コメは北海道産を使っている。
市側が市内産コメの提供再開を検討し始めたため、グループは今年1月から2月にかけて署名を集めた。(1)市の検査では放射性セシウムは測定できるが、ストロンチウムやプルトニウムを測れない(2)基準値を下回る食材でも、子どもが食べ続けた場合の影響がわからない――などの理由から、地元の食材を使わないよう求めている。
グループ代表の鈴木さおりさん(44)は「風評被害払拭(ふっしょく)のために急いで給食に地元のものを使うのは、子どもの未来への配慮を欠いている」と指摘し、市長に「念には念を入れて安全な環境をつくりたい」と訴えた。グループは今後も署名活動を続けるという。(根岸拓朗)
「子を思う母の気持ち」、その動機の純粋さは全肯定されねばならぬというような“雰囲気”と、福島産の農産物に対する自分勝手な思い込み=臨在感的把握(山本七平)とは、通底するものがある。
だが客観的には、今や福島産の食材は厳しい検査を経て、むしろ日本一「安全」だろう。それを示す科学的データだって、我々一般人が、いくらでも手にすることができる。
その上でなお、この手のいわゆる“放射脳”に対し、「気持ちはわかる」「感じ方は人それぞれ」などと、共感できるほど私は寛容にできてない。本当に子供のことを思うならば科学的事実に目を向けるべきだ。それをせず、意識的にか無意識的にか、左巻きの「運動」に利用されているのも気に入らない。また一人の演劇人として、これを善人ヅラして助長する作家や演出家のいまだ多くいることに、怒りを禁じ得ない。
この三年間、風評を拭い去るために懸命な努力を重ねてきた者たちのことは、どう考えるのか?
これはまったくそのとおりで、若い頃に思考の足腰を鍛えておかないと、年とって簡単にアカハタの世界に連れて行かれる。
締切りにはいつも間に合わせるので、「書くのが早い」としばしば評されるのだけれど、現実はまったく違う。
むしろ「遅い」のがわかっているから、とくに外部の仕事などは、正式に依頼を受ける前からフライングぎみに書きはじめ、なんとか帳尻を合わせているのである。
今日、書けないものが、どうして明日書けると、楽観的に思えるのか?
首相、河野談話の継承明言 従軍慰安婦問題
安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で、従軍慰安婦問題をめぐり旧日本軍の関与と強制性を認めた1993年の河野洋平官房長官談話について「安倍内閣で見直すことは考えていない」と表明した。菅義偉官房長官も「河野談話を継承する」と明言した。首相は、従軍慰安婦問題に関し「筆舌に尽くしがたい、つらい思いをされた方々のことを思い、非常に心が痛む」と語った。
過去の植民地支配と侵略を認めた95年の村山富市首相談話にも触れ「歴史認識については歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」と強調した。自民党の有村治子氏への答弁。
いわゆる「従軍慰安婦」問題は意識高い系の左巻きが自己愛を満たす道具になっている。彼らはまた判で押したように反・脱原発を口にし、未来の子供(子ども)にツケを回すなというが、いずれの問題でもツケをこしらえてるのが自分だという自覚がない。
自分の死を知覚するのは他人だけってことだと思うが、「知覚する」ってのは「物語」化に他ならない。だったら自分にとっての自分の死も(少なくとも今際の際までは)、やはり「物語」なんだ、という気が、一度死にかけた経験からするんである。
ものはいいようだな、とつくづく思う。
それがおのがイデオロギーと異なるならば、時間の経過によって冷静さを取り戻し、理性的判断ができつつある傾向を「風化」と呼び、自分だけは相も変わらず思考停止のまま「意識高い人」気取りなのだから。
入江悠監督作品。とても面白い。最初、アーティスト/俗物の二項対立で、前者を能天気によしとするアツイ「少年漫画」なのかと思ったら全然そうじゃない。アーティストもまた俗物の一部なのだという、冷めた視点が清潔。
「気まずさ」だったり「平静を装う」だったり、あるいは「天使が通る」だったり。そういうのが戯曲の行間からまったく読み取れない役者というのが一定数、居る。書かれてあるインクの染みを読み上げるだけ。その“読み上げ方”を「演技」であると勘違いしている。
これはもう演出でどうなるもんじゃない。 残酷だけど「才能」だ。「教育」を含む役者のポテンシャルの問題。年齢にも関わりがない。
舞台上にただ「居る」。そのことの難しさ、奥深さ。
現在、子供向けのミュージカルの演出をしている。
普段はストレートプレイ、とりわけミニマリズム的会話劇を身上とする私である。
傍目には、両者がごっちゃになりそうに思われるかも知れないが、実際のところはむしろ逆で、互いに方法を相対化し合い、その自覚に役立っている。
科学的エビデンスよりもイデオロギーを優先した(している)演劇人ならいくらでも知っている。日頃「言論の自由」をいいながら、徒党を組んで「御用学者」などのレッテル貼りに勤しみ、「ものいえぬ」風潮を助長した(している)。
私もオトナなので、こういう連中に対しても会えば挨拶の一つもするが、腹では軽蔑しきっている。
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