リベラル
ある人が指摘していた。
日本のリベラルのダメなところは、多様性と言いながら自分と思想信条・価値観の異なる人の「多様性」は断固として認めないところである、と。
まったく同感だ。
それでも一応「独善」の批判を気にはかけているようで、アリバイづくりのためにときどき「他者の目」をもってきたりもするのだが、それも結局、自説を補強するのに都合のいい事例のみを、あらかじめ周到に選別するのである。
« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »
ある人が指摘していた。
日本のリベラルのダメなところは、多様性と言いながら自分と思想信条・価値観の異なる人の「多様性」は断固として認めないところである、と。
まったく同感だ。
それでも一応「独善」の批判を気にはかけているようで、アリバイづくりのためにときどき「他者の目」をもってきたりもするのだが、それも結局、自説を補強するのに都合のいい事例のみを、あらかじめ周到に選別するのである。
ラゾーナ川崎ができて、川崎駅前の動線がすっかり変わってしまった。昔はこの駅の改札を出て左に曲がることなんて、まずなかった。
故郷の田舎では、昔ながらの駅前商店街がイオンモールに客足を奪われ、シャッター通りになっている。基本、同じことが、川崎駅でも起こったわけだ。もっとも、さすがに川崎駅前は、シャッター通りにはなっていないが。
ショッピングモールはたしかに便利。駅から直通で雨の日も傘要らず。けれど一方で、何か物足りないのも、また事実。
昔は良かった、などと感傷を垂れ流すつもりはないが、ただ、この「物足りなさ」の正体には興味がある。いったいこれは何なのか?
おそらくこういうことだ。誰かが立てた需要予測の範囲内に自分の欲求がすっぽり収まってしまっている。トンガって、ちょっとはみ出た部分も、せいぜいヴィレッジヴァンガードの手書きポップによって回収されてしまう。
このどうしようもなく「最大公約数」としての私!
石井聰互監督作品。
この映画、マトモな人物がぜんぜん出てこない。
家族が「戦争」に突入するあたりから、ああ、なんでこういうふうにしちゃうんだろう、せっかく前半面白かったのに、と思って見ていたのだけど、疲れ果てた一家が、ボロボロの食卓で朝ご飯を食べるシーンで、なるほど、と腑に落ちた。
ラストシーンは、良くも悪くも、とても80年代ぽい。そうなのだ、バブルで浮かれてるイメージの一方で、こういった「虚無感」のようなキーワードが言われた時代でもあったのだった。
「逆噴射」という言葉は、1982年の日本航空350便墜落事故で、ほとんど流行語となった。
政治が悪い。国家が悪い。だが今、日本の演劇がほんとうに憂慮すべきことはむしろ、そのように常に自分を被害者の立場に祭り上げ、独善的で短絡的な、週刊誌みたく薄っぺらい正義を語ることが「表現」だと思い込んでる自称“社会派”が、徒党を組んでそれなりにハバをきかせてる業界のありようだろう。
原作は、伝説の劇団「東京グランギニョル」(飴屋法水主宰)の舞台。
「愛とは?」「美とは?」という問いを、そもそもそういう概念を持たぬ「人造人間」にさせるのは、ほとんど「古典」だが、それらを学ぶ目的が「美少女捕獲」という「悪」であるあたり、皮肉がきいている。
作者による「あとがき」によれば、漫画に登場する少女「カノン」は、演劇では「マリン」という名だったという。
80年代この演劇を観たオリジナルを愛する方には申し訳なく思うのですがこの漫画化にあたってストーリーはかなりの部分でアレンジを加えた。
演劇版で一番感銘を受けたライチとカノン(マリン)との関係は当時の雰囲気をなるべく残すようにした。
けれど、それにしては肝腎の「ライチとカノンとの関係」が物足りないと感じた。それはカノンの、自分のおかれた状況に対する切実さがあまりに不足しているためだと思う。描かれるはずだった「愛の物語」は、夥しい血と臓物に埋もれてしまった。
さして「思想」と呼べるほどのものがあるわけでもなく、戦後日本教育に支配的なパラダイムから決して逸脱せぬよう目配りしつつ、なんとな~く進歩的知識人気取りで、既視感ありありのワイドショウ的正義を口にする。恥ずかしげもなく。
そういう自己欺瞞に満ちた(あるいは徹底的に自己批評性を欠いた)人間を私は、うすらバカをもじって「うすら左翼」と呼び、心から軽蔑している。
***
もっと上手いこと定義してる人がいた。
リベサヨとは、左翼の上澄みを掻っ攫ってリベラルを僭称し近頃は真の保守に媚売り、ある時は世論ある時は弱者の声を騙り反○○と言って自分の正当性を他人の憑依でごまかし、国の恩恵を貪りつつそれを貶める自分を意識高いと鼻にかけ、ありとあらゆるものを自分のエゴのために喰らいつくす寄生虫ですよ
— 引き割り納豆斎 (@h_nattousai) February 20, 2014
2012年2月にこんなニュースがあった。
時事ドットコム:雪遊びイベント中止に=「放射性物質心配」の声-青森の630キロ無駄に・沖縄
那覇市と海上自衛隊第5航空群(同市)は21日、23日に予定していた子ども向け雪遊びのイベントを中止すると発表した。雪は同航空群が青森県十和田市から搬送したが、沖縄県に自主避難している父母らから、「放射性物質が含まれているのでは」と懸念する声が相次いだためという。イベントは2004年度から続く恒例行事で、中止は初めてという。
イベント用の雪は約630キロ。八戸航空基地(青森県八戸市)の訓練に参加した隊員らが16日、十和田市内で集めてP3C哨戒機で運んだ。搬送時と到着時の2回、放射線量を計測した結果、過去の平常値と同じ水準だったという。
一方、那覇市には2月中旬ごろから、東日本大震災後に自主避難してきた人たちから、会場となる児童館や市に対し、中止を求める声が10件程度寄せられた。市は20日、児童館で説明会を開催。集まった約20人の父母らに対し、放射線量の測定結果を伝え、危険性はないとして開催への理解を求めた。
しかし、参加者からは「雪に含まれた放射能が溶けて空気中に拡散するのでは」「放射能汚染を避けるため沖縄に避難している。少しでも放射能が測定されているなら中止してほしい」などの声が上がった。(2012/02/21-21:04)
ちょうど二年の月日が経つ。
さすがに多くの国民は、常識的な判断力を取り戻したが、一方で、むしろますます“病理”をこじらせる者がある。
彼らの前に科学は無力だ。いくら客観的な数値を示し、その意味するところを専門家が説いたところで、己の不安を満足させる言説以外は頑なに信じないのだから。
もしも私が“社会派”の劇作家だったらこの“病理”を題材とするだろう。しかし私の知る限り、これをマトモな視点で書けそうな「社会派」は、ただの一人もいない。むしろこうした“患者”たちと一緒になって、相も変わらず「国家権力VSイノセントな私」の構図で、幼稚なイデオロギー闘争をやっている。
「自分さえ良ければいいのか」
こういう紋切り型のフレーズを、俗情を後ろ盾として軽々しく口にしたがる「善人」は、しかし「他人が良ければ」しばしばその足を引っ張るものだ。ナルシスティックな善意は容易に理不尽な攻撃性へと反転する。
だったら利己主義である方が遥かにマシというものだ。
少なくとも己をそう定義づけた以上、他人の価値観に土足で踏み込むことを理性が躊躇させる。
この他者との距離感が、言葉を替えれば、「寛容さ」というものではないか。
小劇場の人間なら誰でも稽古場の問題に頭を痛める。
創立何十年の新劇系劇団と異なり、首都圏にあまたある小劇場系劇団やユニットは、経済的理由から自前の稽古場を持たない(持てない)。今は、廃校利用などの実例もあり、昔に比べりゃ事態は改善されたかに見えるが、調べてみりゃ使用できる団体が限られていたり、とてもじゃないが「手が出せない」料金設定になっていたりする。(いったいどんな予算を想定してるんだか、私にはさっぱりわからない。)
かように切実な「稽古場問題」は、しかしたいてい居酒屋で、被害者意識に基づいた愚痴として表出し、最後はいつも「芸術への理解が足りない!」的な、ある種の選民意識に昇華され、雲散霧消してしまう。
なぜか?
どうして議論が積み上がっていかないのか?
理由の第一に、演劇人の多くが、就職や結婚を機にカタギへと転身し、「問題」が過去の“楽しい苦労話”になってしまうからだ。
第二に、そもそもクダまく者たちの多くが本気でなんとかしたいとは思っていない。理想的な稽古場は、金さえ払えば得られないわけじゃないので、制作の責任を負う立場にない者には、“自分の問題”じゃないのである。原価意識を持ち得ないので、環境改善のインセンティブも働かない。平たくいえば、実のところ、他人事なのだ。
そうして歴史は繰り返す。堂々巡り。
堂々巡りを断ち切る、などと勇ましいことは言わないが、この悪循環からスピンアウトする方策は講じていかなきゃならないな、と思う。そろそろ、そういう時期なのだろうと思っている。
メディアは大衆の鏡というが、なるほど、ワイドショウは大衆の醜悪さを可視化する。
http://news.livedoor.com/article/detail/8542958/
「天ぷら」問題(?)を眺めるにつけ、いい年した大人がいかにものごとを論理的に考えられないか、むしろそのことに呆れるばかりだ。菅直人の失策も教訓にできていない。経験上、この手の思考のザツな連中が、被災地を「思いやる」その口で風評被害に荷担してきた。
「酒の席のことだから」なんて理由で無礼を帳消しになんかしない。そんな寛大な心を私は持ち合わせていない。甘ったれんなっつー話だ。
だからウチのカンパニーはよそに比べて「飲み会」の類いが非常に少ない。バカな議論をふっかけられて我慢するのも疲れるし、それで稽古に支障が出ては困る。リスクヘッジの一環だ。
打上でも、朝までなんて付き合ったことがない。そんなところに演劇人「らしさ」を求めていない。
作り手が高い志を持って作品にメッセージを込めるのと、作品自体の志の高さとは、まったく別の話。
蓋然性の話をしてるのに個人の信念なんか持ち出されると、どっと疲れてしまうのだ。そしてその「信念」の、ありもしない根拠を捏造するために、社会通念を後ろ盾としようとしてるな、という気配を見て取ったとき、私は烈火のごとくキレるらしい。
地上で太陽を観測し、三日かけて次の観測事実を得たとする。「一昨日も、昨日も、今日も、太陽は東の高い山の脇から上ってきた」。ここから次のように結論するのが枚挙的帰納法である。「太陽はいつも、東の高い山の脇から上る。」(Wikipedia)
帰納法によって導き出された結論は「仮説」でしかない。
確かにそうなのだが、しかし我々は普段、いちいち自然科学的根拠に立ち返ることもせず、「太陽が東から上る」という「常識」を疑わない。
これは単なる思い込みや偏見によるものか?
否。実際には観測者は、現象に付随するさまざまな情報を受け取り、総合的にその蓋然性を判断している。ゆえに、私は断言できる。明日も太陽は東から上る。
悪い政治VS善良な国民、なんていう、そもそも民主主義の手続き無視した身勝手な構図が、まず気に入らないのだが、この日本において、その程度の“反体制”こそが一番「安全」なのだということを、わかっていながら“命がけ”ぶってる欺瞞が、さらに気に入らないのだよ。
「物語」が交換可能だというのは、それが作者の恣意的な筋書きに過ぎないということ。
んなもんにさしたる価値などない。
劇において大事なのは、的確なプロットを役者が瑞々しく生きること。その連続として、真の「物語」はあとからついてくる。
マンションのエントランスで、帰宅してきた住民に「こんにちは」と声をかけたら、
「はい。こんにちは」。
この「はい」。
まるで学校の先生が生徒に言うような、あるいは上司が部下に言うような“受け流す”口調で、私はちょっとカチンときた。そういやこの男、管理組合の理事会でも何につけ妙に上から目線で、鼻持ちならぬと思っていたのだった。
私はこれを二つの点で面白いと感じた。
ひとつは「はい」の台詞ひとつだけで、かようにキャラを造形しうること。
もうひとつは、それが、ぼんやりした嫌悪感にくっきりした輪郭を与え、言語化可能な「感情」を形づくるのだという発見。
見えない細部にこだわりすぎるのは止めろと私が役者に言うのは、それで何事かをなし得た気になるからだ。
ドブが臭いのならドブをなくせばいい。こんなことを、四十過ぎて本気で思っているなら、相当やばいオツムであると自覚した方がいい。
F・トリュフォー監督作品。
文芸評論家の男が美人スッチーと不倫して、妻に撃ち殺される。
簡単にいってしまえばそういう話。
実は本編よりもDVDの「特典メニュー」の方が私には面白かった。
映画固有の「時間」について語るトリュフォー。また「感情は顔で表わすのではなく状況から生まれます」という言葉が印象的。
ニュースで報じられる犯罪が、しばしば視聴者に「そんな動機で?!」という驚きを与え、一般的価値観と著しくかけ離れた「異常」なできごととして理解し処理されるのは、複雑に絡まり合った事実の細部が捨象され、通りのいい「物語」に変換=捏造されているためだ。
言葉によって伝達される「事実」とは、本来的にすべてそうしたものである。さらに我々が肝に銘じておかなければならないのは、「物語」というものは、いくらでも“交換可能”だということだ。
「ふかふかのもりの(猫の)うち」「ノミ、サーカスへゆく」「ホッグの初恋」「豚」を収録。
「豚」は“ドナドナ”的カンドー物語のパロディとして私は読んだ。
飼い豚の「ピンク」が生ハムとなってメロンと一緒に食卓に並ぶシーン。この「悪意」。やはり作家は「いい人」じゃダメなんだ。
これがかならずしもピンクというわけじゃないんだよ、と父が口ごもりながら言い、あたしたちは本当は全部知っていたのに、今、はじめて、それがピンクなのだと気がついた、といった調子でワアワア泣きました。
去年まで、固定資産税はまとめて全期分納付していたのだけれど、今年からは期別納付に切り替えることにする。
ただでさえ芝居で金がかかるのに、何も自らすすんで資金繰りを悪化させることもない。
もっとも、一括で払ってしまった方が“せいせい”するし、払い忘れてペナルティをくらうというリスクも避けられるのだけれど、そんなリスクを負ってなお、あえてせいせい“しない”という選択をするには、ワケがある。
税金なんてものは、払っても受益の実感はないから、払った瞬間、ものすごーく損した気持ちになる。このブルーな気分が財布のひもを固くし、少なくとも数日間は、無駄な散財を抑制する。
これを「ブルー効果」と名付けようか。(造語です。そんな専門用語はないよ)
期別納付にすることで、この「ブルー効果」が年中持続する。喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、ちょっとずつ流し込むことで、喉はずーっと熱いというわけだ。
ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品。
「完全版」をDVDで観た。足された部分は、あちこちで言われているとおり、完全に蛇足だと私も思う。説明過剰で興醒めなのだ。前半の巧みな省筆ぶりはどこへ消えてしまったのか?
そんなわけで「編集」の大切さを改めて感じたこの映画だが、実は「劇場版」を観たときも、あんまり好きじゃなかったのだ。なんというか、あざといというか、小賢しいというか…。たしかに万人に開かれた、よくできた作品だとは思うのだけど、私は、ノレない。この監督とは相性が悪いみたいだ。
藤原 マキ(ふじわら まき、1941年 - 1999年2月)は、元女優で絵本作家。本名は柘植真喜子(旧姓・藤原真喜子)で、漫画家つげ義春夫人。つげとの間に一男をもうける。(Wikipedia)
素朴な絵と文章からなる絵日記。
「絵日記」自体とても面白かったのだけど、読者が著者に対して抱くであろう良い印象を、夫の、つげ義春が、巻末の「妻、藤原マキのこと」で批判的に修正してるのが、なお面白い。
それでも最後に、つげ義春はこう記している。
反発し合いながらも、同時に依存もしていたのではないでしょうか。だから先立たれてからは、僕はひどい喪失感、虚脱感を覚え、もう何をする気力もなくなってしまったような気持ちになっております。
「泣ける4コマ漫画」として知られる、異色の傑作。
1985年~1990年、週刊宝石に連載され、近年映画化もされた。
主人公・幸江に裏切られても、堂々としている熊本さん。その内面は、どんな言葉を尽くしても、言葉にした瞬間ウソになる。だから作者はひとことのセリフも用いず、路地裏に佇む彼女の後ろ姿一発で見事にそれを表現してみせた。
ラストは、もはや「哲学」の領域。
性善説と性悪説。いずれの立場に立とうと、人は赤ん坊のままでいられるわけではないのだから、今、自分が善悪の混在した存在であるのは同じこと。にもかかわらず、この二項対立が永遠の問いとして生き続けるのは何故か? すなわちそれは、人が自分のルーツを求めずにはいられない存在であることの証左である。
日本ではじめて「普通選挙」が行われたのが1928年(昭和3年)。それから85年が経ち、さまざまな問題は抱えつつも、「国民主権」はこの国に定着していると私の目には見えるのだが、しかし今も「国家権力」という“悪”が、“善良”な「国民」とはべつのところに存在していると思い込んでいる輩が少なからずいるらしい。彼らはしばしば眉をしかめ、もっともらしい口調で、「ゆゆしきことだ」と口にするが、その「ゆゆしきこと」が、何に根ざしているのか、その構造を明らかにしようとは決してしない。そこをあえて曖昧にしたまま、起きてしまった現象に対して、おのがイノセンスを一方的にアピールするのみだ。
ルイス・ブニュエル監督作品。原作はモーパッサンの「ピエールとジャン」。
劣悪な条件下、20日で仕上げた(DVD解説より)というこの作品を、監督自ら、自身のワースト作品に挙げているという。
監督がそんなこと言っちゃ、出演者たちは立つ瀬がないじゃん!
実際に映画を観てみると、オーソドックスな家族劇で、「これがブニュエル?」っていう戸惑いは確かにあるのだけれど、しかしこれはこれで、けっこう悪くはない。「けっこう悪くない」なんて言われ方こそが、奇才ブニュエルにとっては、屈辱に他ならないのだろうけれど。
グレングールドのバッハより、息子のバイエルに感銘を受けることはあり得る。だが残念ながらほぼすべての観客が、演者の親ではないのだ。
左翼の書いた芝居を見ると、「善良」な「普通」の人として設定されている登場人物が、どうみても「プロ市民」で、これって自虐ネタなのかなあ? と悩んでしまう。彼らの芝居は基本、「同志」に向けて書かれてあるので、傾向として、ひどい説明ゼリフもへっちゃらだ。んなもん、イデオロギーさえ観客と一致してれば、批判の対象にもならぬとでも言いたげだ。
だが、演劇というものは本来、作家の思想を披瀝する場ではないのだ。
朱に交われば赤くなる、というけれど、感化される己の姿をコミュニティの外側から見つめる目、つまり自己相対化の意識を常に問うていたいのだ。その視点を欠いて、ギョーカイ内のパラダイムにぬくぬくと浴している者。それが私のいうヒャクショーの定義である。
ルイス・ブニュエル監督作品。
いわゆるメキシコ時代の映画。
ブルジョアの家主が借家人を追い出すために「乱暴者」を雇った時点で、「乱暴者」によるしっぺ返しが待っているであろうことは、ある程度予想できるものの、しかしそうした「定石」(それは観客という得体の知れぬ母集団の最大公約数を求めることで、やってみれば案外と難しい)に則った明快なストーリーが、むしろ楽しめた。
印象的なカットも多々ある。
画面から俳優を排し、肉の焼ける様子だけを映したラブシーンや、お菓子をねだる老人、ラストの「鶏」など…。
個人的には、ブルジョアの妻に焦点化して、「乱暴者」に対する「可愛さ余って憎さ百倍」の心理を描くのもありかと思うが、それはまた別の話か。
パゾリーニ監督の遺作。
原作はマルキ・ド・サドの 『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』。
映画は20世紀のイタリアを舞台としているが、21世紀の日本においても、あながち荒唐無稽な話ともいい切れない。政治家がマスコミの支持をとりつけ、大衆を洗脳すれば、民主主義の手続きの下、デタラメな政権が誕生することは、すでに民主党政権で経験済みだ。
その悪夢を経てもなお、それが悪夢であったという実感すら持てず、やれ「軍靴の音」だの「戦前回帰」だの、もはや「平和ボケ」と呼ぶことさえも憚られる思考停止ぶりの国民(主権者!)の存在を目の当たりにするにつけ、事態はむしろ現実味を帯びてきたとすら思えるのだ。
普通の知性を持った大人であれば、「組織」の意味を最低限理解して、こういう事態を避けるべく身勝手な自己顕示欲は慎むものだ。しかし世の中には、そもそも“普通の知性”を持たぬままいい大人になってしまった者が結構な割合でいるんである。
この数年でこの手のバカに2人遭った。
「最近の若者は」論の恥ずかしさは、それがさしたる根拠もないままに常にすでに言われ続けて久しいものであり、自分がその「大衆」の構造にまんまと組み込まれているという自覚のないことだ。要するに短絡的で自己批評性が欠如している。こういう人間の吐く言葉を私は信用しない。
最近のコメント