蛇にピアス
途中まで、すごく上手いなあと感心しながら読み進めました。
が、後半、「物語」による展開に頼りだすと、ああ、なんかフツーになってきた。力尽きたな、と感じざるを得ませんでした。
芥川賞の選評で山田詠美が「良識あると自認する人々(物書きの天敵ですな)の眉をひそめさせるアイテムに満ちたエピソードの裏側に、世にも古風でピュアな物語が見えて来る。」「ラストが甘いようにも思うけど。」と言ってますが、同感です。
なぜそうなるか?
作家は“個性的”たらんとして他者との差別化を図るわけだけれども、と同時に読者に共感させもしたいわけで、このジレンマの解消は、いうほど簡単じゃない。
「批評」をざっとネットで検索してみると、しかしもっと古風な文学観を得意げに披露してる方が結構いて、ちょっと驚き。
私も最近はあまり小説を読まなくなりましたが、それなりに読んでいた学生時代はテクスト論全盛でしたから、「作者の言いたいこと」だとか、アホかって感じがありましたけれども、あれから二十数年、時代は巡り、むしろテクスト論など過去の遺物、「作者のいいたいこと」系の方が主流ということなのかもしれません。
これはやはり時代が保守化しているということなのでしょうか?
違うと思います。
たぶん今も昔もそういう読者層は常に存在したんです。
けれどあの時代、我々読者が目にすることのできた「批評」は文芸誌に載ってるような、いわゆるプロのものばかり。“一般人”の素朴な感想って、まず目にする機会がなかった。
それが今、フェイスブックとかブログとかツイッターなどのツールによって顕在化したにすぎないんだと思います。善し悪しはともかく。
« 主張 | トップページ | 『東京ガールズブラボー』岡崎京子 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 「くださる/いただく」問題(2016.06.07)
- 三浦瑠麗『日本に絶望した人のための政治入門』(2015.06.24)
- 石平『私はなぜ「中国」を捨てたのか』(2015.06.02)
- 篠原常一郎著/筆坂秀世監修『いますぐ読みたい 日本共産党の謎』(2015.05.24)
- 『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』仲正昌樹(2014.12.16)
コメント