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2014年1月 5日 (日)

蛇にピアス

途中まで、すごく上手いなあと感心しながら読み進めました。
が、後半、「物語」による展開に頼りだすと、ああ、なんかフツーになってきた。力尽きたな、と感じざるを得ませんでした。
 
芥川賞の選評で山田詠美が「良識あると自認する人々(物書きの天敵ですな)の眉をひそめさせるアイテムに満ちたエピソードの裏側に、世にも古風でピュアな物語が見えて来る。」「ラストが甘いようにも思うけど。」と言ってますが、同感です。
なぜそうなるか? 
作家は“個性的”たらんとして他者との差別化を図るわけだけれども、と同時に読者に共感させもしたいわけで、このジレンマの解消は、いうほど簡単じゃない。


「批評」をざっとネットで検索してみると、しかしもっと古風な文学観を得意げに披露してる方が結構いて、ちょっと驚き。
私も最近はあまり小説を読まなくなりましたが、それなりに読んでいた学生時代はテクスト論全盛でしたから、「作者の言いたいこと」だとか、アホかって感じがありましたけれども、あれから二十数年、時代は巡り、むしろテクスト論など過去の遺物、「作者のいいたいこと」系の方が主流ということなのかもしれません。
 
これはやはり時代が保守化しているということなのでしょうか?
違うと思います。
たぶん今も昔もそういう読者層は常に存在したんです。
けれどあの時代、我々読者が目にすることのできた「批評」は文芸誌に載ってるような、いわゆるプロのものばかり。“一般人”の素朴な感想って、まず目にする機会がなかった。
それが今、フェイスブックとかブログとかツイッターなどのツールによって顕在化したにすぎないんだと思います。善し悪しはともかく。
 

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