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2014年1月

2014年1月30日 (木)

めし

成瀬巳喜男監督作品。(原作・林芙美子/監修・川端康成/脚色・井出俊郎 田中澄江)。

木全公彦氏の解説によると、この未完の原作(原作者が心臓麻痺で急死のため)を、脚色の担当者は第一稿で、主人公である倦怠期の夫婦が別れる、という結末に仕上げたようなのだが、原作の連載元である朝日新聞から、

離婚は困るという申し出があった。製作会社の東宝でもやっぱりラストでは夫婦仲直りしなくちゃ興行価値がないという」(「『妻として女として』のシナリオ・ライターとして」、「シナリオ」1961年5月号所収)

という経緯があり、現存する形になったらしい。

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フェデリコ・フェリーニ監督作品。さっくり104分という短さ。
物語は、死んだ姉の身代わりとしてジェルソミーナが芸人になるところからはじまる。この導入がさりげなく、巧い。
ジェルソミーナに石をやる綱渡り芸人のキャラクターなんかも、いい。お調子者で憎たらしいが、これが単なる「いい人」だったら、どんなに薄っぺらいか。

ザンパノに置き去りにされたジェルソミーナが彼の後を追い、彼の目覚めるまでにトマトの種を植える場面。せつない。終盤、再びザンパノがジェルソミーナを置き去りにするとき、彼女は追ってこない。もう、「トマト」のときのようには。
時が経ち、ジェルソミーナの死を知るザンパノ。失ってようやく彼女に対する己の愛に気づいたか。
しかし取り返しのつかぬ時。

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2014年1月29日 (水)

加害者

単純な勧善懲悪の「物語」に心理的に同調するのは勝手だが、そこで明確に貶められる対象のあるとき、事実関係の確認もなしに情報拡散することは自分が加害者となる可能性のあることをいい加減学べ。

居酒屋的

居酒屋はべつに嫌いじゃないが、居酒屋的なるものが嫌いだ。つまり、酔っ払い同士の論点の噛み合わなさ、不毛な争い、逆に、馴れ合いのための単純化された世界観の共有。

デクノボー

手足に神経の行き届いてないデクノボーにどんな振付を施したところで、舞踏家がただ音楽に身を委ねている姿に、絶対にかなわない。

2014年1月28日 (火)

恐怖

子供の頃、デパートの屋上のヒーローショーで、「悪者」につかまりそうになったことがある。逃げ惑う周囲の子供たちと同様、確かに私も恐怖を感じたが、その「恐怖」の中身は、率直に悪者キャラへの恐れというより、赤の他人の腕力によって未体験のステージに担ぎ上げられ、見知らぬ観客の視線に晒されることだった気がする。

アツさ

アツさはときにバカと同義語、とは、かねてからの私の持論。通俗的な「正論」を、もっともらしく語りさえすれば、おのが独善性も正当化できると信じ込んでいる。見せかけのアツさの一方で、思考がすこぶるヌルいのだ。

2014年1月27日 (月)

権力

フーコーはいっている。

権力の関係の原理には、一般的な母型として、支配する者と支配される者という二項的かつ総体的な対立はない。その二項対立が上から下へ、ますます極限された集団へと及んで、遂に社会体[社会構成員]の深部にまで至るといった運動でもないのである。(―知への意志―)

そして民主主義社会において、少なくとも完全普通選挙の定着した日本において、その制度は投票という形で可視化されている。そのことにどういうわけか目を瞑り、旧態依然とした、国家/個人、権力/自由の単純化された二項対立の構図で、センチメンタルかつ身勝手な正義を叫ぶ者がある。その「センチ」すら、「権力」によって支えられているという側面には考えが及ばぬらしい。まるで甘ったれたバカなガキのようだ。

生れてはみたけれど

小津安二郎監督作品。
フィルムに描かれる少年達は屈託なくいがみ合い、ささやかな富の力(=雀の卵)で力関係を一変させたりもする。実際、少年の社会で、その「転落」はかなり切実なのだ。
そんな切実さの摩擦の中で、少年はやがて「男」になり、「父」となるはずである。容易に変えがたい社会の力関係の中で、息子たちを“食わして”いくために、ときに道化を演じてみせねばならぬこともあるだろう。今、少年の父がそうであるように。
だが、息子はそんな父の姿が我慢ならない。なので文字通り「食う」ことを拒否してみせるのだ。

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2014年1月26日 (日)

愛嬌

自分と異なる考えのあることは当然だが、傾聴に値しない戯れ言にまで愛嬌を振りまく必要はないだろう。

独善

〈世界が「騙され」て自分だけが真実に気づいた〉という構図に何の疑問も危うさも感じられないなら、もはや「独善」を通り越してただのバカだ。

2014年1月25日 (土)

誠実

心の内にあるものを言葉にしてそのまま吐き出せば「誠実」ってもんじゃないのだ。ときにそれは、相手を騙す手間すら惜しみ、嘘をつく後ろ暗さも引き受けない、怠慢かつ傲慢で失礼な態度となる。

淀み

イデオロギーの枠組みの中で淀んだ集合知に長く浸されていると、淀みの腐臭で鼻がバカになり、まともな判断ができなくなる。

経験

「経験」は軽んじられないが、決して「絶対」じゃない。むしろそれは経験者の主観を補強し、しばしば「事実」と反対の思い込みに導く。

2014年1月24日 (金)

BiS階段

アイドルグループ(?)BiSと、非常階段のコラボ。曲は戸川純の「好き好き大好き」。
なんかいろいろいいとこ取り。スターリンやハナタラシやらを彷彿とさせる豚の頭やユンボなど、一昔前なら「パロディ」の一言で片づけられていたんだろうが、私ら世代のオッサンは、妙なノスタルジーを感じもする。なんとなく、岡崎京子の漫画世界を思い出したり。ま、いかにもサブカルだし、そもそもメンバーは知らずにやらされてるんだろうけど。
メンバーに美人がいないのも、また、いいのだ。「若さ」の特権性が際立つから。「就活」を理由に脱退しちゃったり、そのヌルさもまた妙にリアルだったりする。
それにしてもグロと少女は親和性が高いなあと改めて思う。そういや、キモカワイイなんて言葉をちょっと前にはよく耳にした。エロスとタナトスってやつか。

2014年1月23日 (木)

引き出し

現代演劇の演じ手が“引き出し”の中にしまっていいのは創作のための「道具」(=パターンの認識)だけ。出来上がった「服」を後生大事に取っておく必要はない。いつかどこかで使い回せると思っているなら大間違いだし、それをセーフティネットとし、今ここでされるべき新たな創作が疎かになるくらいなら、そんな“お古”はむしろ捨ててしまった方がいい。

発表会

グレングールドのバッハより、息子のバイエルに感銘を受けることはあり得る。だが、その他の観客は演者の親ではないのだ。それが発表会と公演の違い。

「原発の是非の主張と、今起きている放射能のリスク評価の問題はまったく別である。」
こんな当たり前のことがどうしてわからないのか、わからない。自説の脆弱さを帰納的に補強しようとして現実を歪めてしまう。その愚かさにすら気づかない愚か者。
 
http://agora-web.jp/archives/1520363.html

履歴書

オーディション応募者の履歴書を眺め、この年の頃、自分は何をしてたっけ? と思う。そりゃ芝居をしてたんだが、若い頃には無限の選択肢があるように思われ、何物でもない自分に焦りを感じる。「不惑」とは良くいったもので、就職情報誌が、もう引き返せないことを教えてくれる。

承認

どこぞの誰かと違い、“心優しいボク”を承認してもらうために劇を書いてるわけじゃないんでね。

主宰者の挨拶文は、社会状況を陳腐に憂えてみせなきゃいけない決まりでもあんのか?
大文字の問題を既視感ありありの言葉で語られても、政治的属性を知らされるのみ。顔を見せてみろ。

2014年1月22日 (水)

論点

論点を見失う、なんてことは誰にもあることで、しかし俗情との結託により自説を正当化しようという気配を相手に感じたとき、私はそれ以上の対話をストップする。

木綿のハンカチーフ

そりゃ昔はせつない名曲だなあとか、薄情な男め、と思ったりしたもんだが、今聞き返すと、この主人公の女、ちょっとカチンとくる。男がよかれと思ってノリノリでした提案を全部「いいえ」で退けるんだもの。そりゃ、男もイヤになるって。で、最後は、涙拭くハンカチくれとか。もう、送金するから自分で好きなの買ってよ、と言いたくなる。

2014年1月21日 (火)

自明性

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と、その昔、ビートたけしは言った。
だが、渡ろうが渡るまいが、赤信号を止まるべき“記号”として認めているという点では、どちらも同じことだ。
変わらない日常が主題となり得た時代。そんな1980年代に私は青春を過ごした。「自明性」を疑い、信号機の「意味」をいかに無効化するか。冗談めかしながらもみんな結構真顔であれこれ試みていた。例のポストモダンてやつ。
だが、今振り返ってみれば、誰も「意味」を消し去った後のことまでは考えていなかった。というか、消し去れる、などとは本気で思っていなかった。むしろ「自明性」を強く信奉していたからこそ、疑うポーズがとれたのだ。
まるで当時流行ったテニスの壁打ちだ。ほどよく返球されることを前提に、仮想敵に打ち込むのである。

2014年1月20日 (月)

役/役者

「ちゃんと見て」「見てますけど」
「ちゃんと聞いて」「聞いてますけど」
演出家なら誰でも一度は稽古場でこんなやり取りにため息をついた経験があると思う。
無駄にプライドが高いアマチュアにありがちな“口答え”だが、そういう演者は今一度その主語を己に問うてみるがいい。 
「見ている」「聞いている」のは誰か? 
演出家は「役」の指摘をしているのであって、「役者」のことを話しているのではない。
 
「役」と「役者」を峻別せよというのがほとんど私の口癖だ。
「役」とは、観客の視線を介してのみ存在する。まずこの当たり前の原理がきちんと理解されるべきだ。
「見てますけど」「聞いてますけど」は主観と客観の齟齬を把握し修正する能力がないことを演者自ら宣言しているに等しい。そこにクリエイティビティは期待できない。極端な話、役者が舞台上で“実際に”どんなに深く悲しんでみても、観客の目に笑って見えれば、「役」は笑ったのだ。
 
小劇場に於いて俳優のプロ/アマの線引きをするのは難しいが、その指標を経済でなしに、舞台に対するこうした基本原理の認識の有無に求めれば、やはりその差は歴然とある。役者=自分の感情にばかりかまけて、「役」をおざなりにすれば、結果、独りよがりの閉じた芝居ができあがるのである。

2014年1月18日 (土)

言葉と貨幣

貨幣と言葉は、複合的機能を有する点で、似ているな、と思う。
「貨幣」には、交換手段のほかに、価値の貯蔵手段、計算単位の機能がある。
「言葉」も、伝達機能のほかに、分類機能、思考機能、等がある。

こちら持ち

それがどんなに陳腐な主張であっても、たとえば「命は大事」であるとか「いじめはよくない」だとか、倫理的に反論の余地のない通念を盾にすれば、おのが信念の正しさは自明に担保されるという仕掛け。
「だが、今、論点はそこにはない」と、まず、議論の出発点を理解させるだけでも膨大な労力を要するタイプの人間がいる。対話を成立させようと思えば、互いに共通の文脈を最低限用意しなけりゃならないのだが、そのコストは、いつも必ずこちら持ち。

不言実行

「不言実行」ってなんとなくカッコよさげだけど、たいてい「なんだ、だったら言ってくれよ。まったくとんだ二度手間だぜ」って舌打ちされることになる。

2014年1月15日 (水)

男社会

私はフェミニストなんかでは全然ないし、通念的な社会正義におもねるつもりもさらさらないが、いわゆる「男社会」というのが嫌いだ。「男」であるというだけで、バカが幅をきかせている不経済が許せないからだ。

2014年1月12日 (日)

西陣心中

高林陽一監督作品。
最初に見たのは大学生の頃。その虚無感漂う、独特な不気味さにゾワッと鳥肌が立ち、以来、ずっと気に掛かっていたのだが、いかんせん深夜のテレビでたまたま見ただけなので、題名すらわからないままだった。
 
おおよそのあらすじと、シーンの断片的な印象を手がかりに、映画好きの友人に手当たり次第に尋ねてみたのだが、みんな、知らないなあと、つれない返事。それですっかり諦めていたのだけれど、ネットの時代になって、ひょんなことから、タイトルが判明したのだった。
 
DVD化はされていないもようで、私はビデオを渋谷のツタヤで借りて見た。
主演の島村佳江の無表情なコワさや、成田三樹夫のイヤラシさは、昔の記憶とだいたい一致したのだが、印象的なシーンのいくつか、とくにラストシーンは、思っていたのとずいぶん違う。むろんそれは私の記憶が、私好みに都合よく彫琢されてしまったにすぎないのだけれども、それでもやはり、このラストの見せ方がベストであったとは思えないのだ。
かなり好きなタイプの映画だから、もっと大傑作になりえたと、脳内で勝手に自分だけの「西陣心中」を上映させてもらう。

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2014年1月11日 (土)

タイムマシン

理不尽な暴力がまかり通る環境で中学生活を送った。先生などアテにできぬと悟ったし、警察権力のありがたさを実感したものだ。うすら左翼のヌルい言説を目にすると、タイムマシンでこの時代に連れて行って、この環境に放り込んでやりたくなる。

売られた喧嘩

「仕事とあたしとどっちが大事なの!?」という、テレビドラマ的ベタな諍いは、べつにその言葉のとおり二者択一の回答を求めてしている「問い」ではなくて、不当に低く位置づけられた己の優先順位に対する「抗議」なのだから、そもそもそこに「解」はない。そのことをわかった上であえて「回答」するということは、相手の言葉の真意を捨象する行為であり、つまり「売られた喧嘩は買うぜ」っていう宣言になるのだ。

性癖

せい‐へき【性癖】
性質上のかたより。くせ。「大言壮語する―がある」
[補説]「性」を性質の意ではなく性交の意ととらえ、誤って、性的まじわりの際に現れるくせ・嗜好、交接時の習慣・習性の意で用いることがある。

誤用がすっかり定着し、今じゃ本来の意味で、ほぼ使えなくなった。
あえて使うけどな。
それが私の性癖だから。

2014年1月10日 (金)

耳障り

「言葉は生き物」などという、わかりきったご高説はあらかじめお断り。
「耳障り」の誤用について。
耳に障ると書いて耳障り。聞き心地のよさをさして「耳障りがいい」と表現するのは、違和感を覚えない方がおかしい。

『海街diary5 群青』吉田秋生

あえてイチャモンつけるとすれば、ちょっと「正し」すぎる気がしないでもない。それは登場人物が、陳腐な意味で「いい人」に描かれてるとか、そういうんじゃないくて、むしろその逆。皆が「成熟」しすぎと感じたのだ。この町の人々、どうも平均して知的水準が高すぎる、バランス感覚が良すぎると感じてしまう。人間、もっとバカだと思うし、世間てもっとゲスなもんじゃね? むろん、そういう世界観で描かれた作品じゃないと言われれば、そのとおりなのだけど。
とかなんとか勝手なことを言ったけど、相変わらずめちゃ巧いのは確かだし、実はとても楽しめた。

 
 

株価

株価が変動するのは何故か? →株式に対する需要と供給の関係。
じゃあなぜ需要が起こるのか? →配当があるから。
 
ここまでは中学生でもわかることだが、配当ゼロの株式も市場で取引され、現に株価は上下している。
なぜ配当ゼロの株式に需要があるのか?
という問いが、大学時代にゼミ(マル経の金融論)で議論され、我々学生の出した結論は「売却益を見込むから。つまり安く買って高く売る」。
では、なぜ安く買って高く売ることが可能なのか? →株価が変動するから…。
これでは結局「株価が変動するのは、株価が変動するから」といってるのに等しい。トートロジー。
 
私としては、べつに単位さえもらえりゃそれでよく、この疑問はそれっきり捨ててしまったのだが、しかし探せば合理的な説明というのはあるもので、なるほどなあ、と今さら納得させられたのだった。

http://mf0929.blogspot.jp/2012/05/blog-post_26.html

無駄に顔を合わせず、適度な距離をとる。そういう「平和」のつくり方だってあるでしょうよ。「こんにちは。いい天気ですね」こんな会話以上をすべきでない「友」というのも存在する。

善悪

善悪というのは常に相対的なもの。当たり前のことだけれど。その当たり前の自覚があれば、いい大人が中学の道徳みたいな「ピュア」を絶対視なんかできないはず。だからいうのだ。アツさはときにバカと同義語だと。

視線の形式

観客の「視線の形式」に対するスタンスをどう取るか。
演出家はそれを決めなきゃならない。
それが作風とかスタイルとかいわれるものだが、さまざまな現実的要素により、必ずしも任意に選び取れるというわけじゃない。
そこがつらいところ。

2014年1月 8日 (水)

国語力

男子より女子の方が国語力が高い、というのは一般によく言われることだが、自分の経験に照らしても、確かにそう感じる。もちろん例外はいくらでも存在するのだろうし、理由はよくわからないのだけれど、女子より男子の方が背が高い、というのと同程度の感覚で、男子より女子の方が国語力が高い。

好きでいさせてください

歌謡曲の歌詞なんかにありがちな、「好きでいさせてください」というフレーズが大嫌いなんである。この一見謙虚なふりした押しつけがましさ。好きでいたけりゃ勝手に好きでいればいい。相手の承認は不要だ。

『寂しき人々』ハウプトマン

田山花袋「蒲団」のネタ本の戯曲。
後藤明生による指摘を引き合いに出すまでもなく、「蒲団」の作中にそのような言及がハッキリある。つまり、「蒲団」の竹中時雄≒「寂しき人々」のヨハンネスというわけ。
このヨハンネスの、妻に対する鈍感、無神経ぶり!
「解説」によれば、この作品は『イプセンの「ロスメルスホルム」とテエマを等しくし、種々の点で学んだところが多いと思われる』とのこと。

2014年1月 7日 (火)

『アンラッキーヤングメン』藤原カムイ×大塚英志

さまざまな仕掛けが施されていることも、漫画固有の文法を活用した「あえて」のご都合主義も、わからないではないのだけど、結局私は最後までノレなかった。
アイデアの開示に過ぎぬというか、物語の「設計図」を読まされたようだ。どこぞの社会派劇作家のような「説明台詞」も多々あり、これも相当に萎えた要因だ。
そんなわけで『啄木の歌を「代入」することで「内面」を与えた。』云々の「あとがき」は、言い訳がましいというか、さらにシラケてしまったのだ。

丸山眞男と戦後日本

(1)
http://youtu.be/BrZEoOLloew

(2)
http://youtu.be/ZER7DVdII0c

(3)
http://youtu.be/8yUfLxCw4B8

(4)
http://youtu.be/VRuM0fmmboY

(5)
http://youtu.be/eN7XbxU5u5Q

(6)
http://youtu.be/20XfTPXsdPA

(7)
http://youtu.be/huGV6xJfvLA

保守/革新

保守と革新の正確な定義は難しいが、「言葉」という観点から、こう定義づけられるんではないか。すなわち、すでにあるいわく言いがたいものに言葉を与えるのが「保守」で、逆に、いまだないものを言葉によってあるように見せるのが「革新」である、と。

『楢山節考』深沢七郎

深沢七郎のデビュー作(第1回中央公論新人賞)にして代表作。1958年に木下惠介監督、1983年に今村昌平監督により映画化されている。
いわゆる「姥捨て」の話。息子の辰平が年取った母おりんを山に置いて下りる途中で、かつて母の予言した通りに雪が降る。

辰平は猛然と足を返して山を登り出した。山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。知らせようというより雪が降ってきた! と話し合いたかったのである。本当に雪が降ったなあ! と、せめて一言だけ云いたかったのである。

プロミネンス

プロミネンス(ぷろみねんす)prominence
話し手が情的意味を伝達または強調するために、発音の一部分を発音の上で際立てること、あるいはその際立てられた部分。卓立。発音の際立ちは、意味のレベルでは焦点に対応する。アクセントとは異なり、語の知的意味の弁別に役立つことはない。また、発音の特定の部分に対応することから、文などの表現単位に対応するイントネーションとも区別される。

http://homepage3.nifty.com/recipe_okiba/nifongo/glossh3.html

テレビやラジオのアナウンサーが漢字を読み間違える例など枚挙にいとまがない。間違えや勘違いなんか、人間誰でもあるのだし、そんなことでいちいち揚げ足をとるつもりもない。
だが、プロミネンスについて。
たとえば、「戦後最大の台風です」という一文。
特殊な文脈にない限り、「戦後最大」が強調されて読まれるべきだ。日本に住んでりゃ、台風なんか毎年くるものなんだから。
しかしどうも最近(数年? あるいは十数年?)、「台風です」にプロミネンスを置いて読まれがちな傾向にあると感じられ、気になってしょうがない。
 
「台風が近づいています。戦後最大の“台風です”」という具合。
 
だから、台風はわかってるっつーの!

2014年1月 6日 (月)

少女オルフェ/星とプロペラ

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住まなかった場所、つき合いのなかった友、出会わなかった恋人…。
そういう、“ありもしない過去”が、ときに(というより、しばしば)現実よりも懐かしく、愛おしいのである。
現実逃避と言われれば、まあ確かにその通りかもしれないのだけれど、住まなかった“あの場所”に帰りたい、出会わなかった彼らと“再会”したい。そのための口実として私は芝居をこしらえているのかもしれないな。

明け方、山田勇男監督の『少女オルフェ』と『星とプロペラ』を観ながら、ぼんやりそんなことを考えた。

眼差し

たとえば「かつて私は金がすべてだと思っていた」という告白。当然、これに続くのは、「しかし今の私は―」と、これまた通念的な「善」の上書きによる自己肯定が展開されるわけだが、こんなものに人々が共感し、あわよくば感動すらすると踏んでいる、ナメた眼差し。

『東京ガールズブラボー』岡崎京子

ざっくり要約すれば、ニューウェイブ大好きの北海道田舎娘が80年代東京を異化する話。私自身『宝島』読者の田舎者だったし(テクノとか、イタイと思ってたけど)、面白く読んだ。神田の『ブラック』とか懐かしい! 
巻末に作者と浅田彰との対談。作者は主人公に対して「あまりにもバカなので、描いててハラが立ってきちゃって」というけれど、私は主人公のヨクボーのありように、むしろとても清潔さを感じた。

2014年1月 5日 (日)

蛇にピアス

途中まで、すごく上手いなあと感心しながら読み進めました。
が、後半、「物語」による展開に頼りだすと、ああ、なんかフツーになってきた。力尽きたな、と感じざるを得ませんでした。
 
芥川賞の選評で山田詠美が「良識あると自認する人々(物書きの天敵ですな)の眉をひそめさせるアイテムに満ちたエピソードの裏側に、世にも古風でピュアな物語が見えて来る。」「ラストが甘いようにも思うけど。」と言ってますが、同感です。
なぜそうなるか? 
作家は“個性的”たらんとして他者との差別化を図るわけだけれども、と同時に読者に共感させもしたいわけで、このジレンマの解消は、いうほど簡単じゃない。


「批評」をざっとネットで検索してみると、しかしもっと古風な文学観を得意げに披露してる方が結構いて、ちょっと驚き。
私も最近はあまり小説を読まなくなりましたが、それなりに読んでいた学生時代はテクスト論全盛でしたから、「作者の言いたいこと」だとか、アホかって感じがありましたけれども、あれから二十数年、時代は巡り、むしろテクスト論など過去の遺物、「作者のいいたいこと」系の方が主流ということなのかもしれません。
 
これはやはり時代が保守化しているということなのでしょうか?
違うと思います。
たぶん今も昔もそういう読者層は常に存在したんです。
けれどあの時代、我々読者が目にすることのできた「批評」は文芸誌に載ってるような、いわゆるプロのものばかり。“一般人”の素朴な感想って、まず目にする機会がなかった。
それが今、フェイスブックとかブログとかツイッターなどのツールによって顕在化したにすぎないんだと思います。善し悪しはともかく。
 

主張

言いたいことがあるなら言えばいい。fbで誰かの記事に「いいね」して、自身のスタンスをこっそり主張するなど、言論に関わる者のすることか。自分のケツは自分で拭え。

カップ

正月に帰省した際、群馬の実家で飲んだコーヒー。
このカップ、少なくとも40年前に見たことがある。いまだ現役。物持ちいい。
40年前は、小さな平家建てに住んでいた。コーヒーには砂糖とクリープを入れる。ピアノの先生が来るとコーヒーを出す。ピアノは苦痛。近所の同級生がみんな習い始めたものだから、母が負けじと私に習わせたのだった。あんまり苦痛なものだから、授業をすっぽかしてザリガニ吊り。酷く叱られた。
等々、記憶が芋づる式に。

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記憶

思い出が美化される、というのはある意味当然のことなのだ。
記憶とはそもそも「物語化」に他ならない。人は自分の過去を物語として記憶する。
「歴史」が「物語」であるというのはこの文脈上にある。
ならば、「歴史の共有」など不可能な話だ。私の記憶とあなたの記憶が決して一致しないように。

学習能力

こういうシンプルな推測もできず、やれサンフランシスコ講和条約がどうだと妙な屁理屈こねてる連中は、世間知らずのお人よし、というよりも単に学習能力がない、要するにバカなんだと思う。

誤植

そりゃあ、何度見直しても、原稿に誤植があるわけだよ。

2014年1月 3日 (金)

鸚鵡返し

いったいどれだけ自分の「青春」を高く見積もっているのか知らないが、今どき左翼思想にかぶれ、昔どこかで聞いたことのある「お花畑」なことを“である”調で堂々と語っちゃうような連中に、若い世代をバカにする資格など毛ほどもない。
彼らに思想と呼べるほどの内実などありはしない。付和雷同というか、長いものには巻かれろで、朝日新聞的テンプレートを鸚鵡返しにしてるだけ。
痛々しくて見てらんない。

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