お役所仕事
一般に「お役所仕事」といったら融通の利かぬ“よくない”イメージであるけれど、ルールを無視して誰かを特別に扱えば、その分必ず他の誰かにしわ寄せが行く。そうした規則の恣意的運用を排除しようとすれば、融通が利かなくなるのは必然なのだ。少なくとも、「臨機応変」の名の下に自己都合を相手に一方的に押しつけてくる偽善者に比べれば、お役所仕事の方が遥かにフェアでマシというものだ。
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一般に「お役所仕事」といったら融通の利かぬ“よくない”イメージであるけれど、ルールを無視して誰かを特別に扱えば、その分必ず他の誰かにしわ寄せが行く。そうした規則の恣意的運用を排除しようとすれば、融通が利かなくなるのは必然なのだ。少なくとも、「臨機応変」の名の下に自己都合を相手に一方的に押しつけてくる偽善者に比べれば、お役所仕事の方が遥かにフェアでマシというものだ。
「最近の若者は」論を耳にするたび、20年前に自分らが言われたそれと、どこがどう違うのか、と思う。そもそも20年前の自分を客観的に記憶しているのか。私は自分の「青春」が、そんなたいしたものだとは思えない。
首相の靖国参拝で大騒ぎするマスコミ。また左の方から「戦前回帰」とか「軍靴の音」とか、陳腐なステレオタイプを聞かされることになるのだろう。この手のうすらバカにはいい加減ウンザリだ。とくに醜悪だと感じるのは、なんとな~く同調する連中。自我の切れ端を「みんな」の中に紛れ込ませて決して自分のケツを拭かない。
一方でハイテクの電子機器を必要以上にありがたがり、一方で脱原発を主張する。
バカじゃなかろかと思うけれども、定量的リスク評価のできないオツム、場当たり的で一貫性を欠くその価値観を思えば、なるほど両者は矛盾しない。
「この21条2項についても、何が「著しく不当な方法による」取材行為かがはっきりしないと批判されることがあります。しかし、報道機関の記者は子どもではなく、大の大人ですから、何が「著しく不当な方法」かぐらいは、自分で判断して当然のように思われます。(略)裏返して言うと、報道機関の記者がどのように取材すべきかを一々法律で決める方が善い社会だとは言い切れないでしょう。」
で、「表現が萎縮する」とかいうゲージュツカの言い分も、議論の本質を欠いたトンチンカンなもので、これに同調する者も、どうせろくに法案を読んでもおらず、さしたる考えがあるわけでもなく“気分”で言ってるだけなんだから、もう、ほっとこ。こういうウスラサヨク(なんとなく左寄りのスタンスを取っとけば、おのが正義が担保されると信じている、戦後教育の悪弊を体現したうすらバカ)に関わるだけ時間の無駄だ。という気分。
つくづく思うが役と役者の心情は峻別されていなけりゃならない。
人の関係性が濃密さを獲得するには集団で閉じるしかないのだと思う。
問題はその先。
そこで生まれた言葉が外部の他者に開かれているか否か。
やたらと啓蒙的なことを口にしたがる人間は二重に自己批評性が足りない。ひとつは「あんた何様?」という話。そうした問いをかわすために通念的価値観を後ろ盾とし、俗情との結託を図ったうえで薄っぺらい「正論」を自説として強調するのだが、そのみっともなさも自覚しない。
これの続き。
かつて、貸主が鍵を置き忘れ、借主である我々の一人がわざわざ遠方まで取りに行ったことがある。その交通費は当事者間の話し合いに任せるにせよ、おかげで遅れた我々の仕事、機会損失をどう感じているのか? どうやら何も感じぬ人であるらしい。ずいぶんとナメられたものだ。
今日はその鍵の問題で貸主ともめた。
だいたい貸主がいたりいなかったり、戸が開いてたり締まっていたり、それが貸主の日常であっても、他者には一貫性を欠く非日常だということに、まるで思い至らぬらしい。自分の都合を相手が慮るのが当然だとでもいうように、明確化されない基準を恣意的に運用し、そこから相手が少しでも外れれば「モラルの欠如」という決めつけ。いったいこいつはナニサマのつもりなのか。どういう管理方法なのか、事前に聞いても明らかにされず、初日には鍵のありかもわからぬまま不在である。電話しろと言うから電話すれば今は忙しいから、という。それだけでもこっちは不要なストレスを抱えてきたわけだが、しかしまあ、それは今さらいい。ようやく先方の「常識」に慣れてきたかと思えば、これだ。
今日は、いつもと違い、なぜか直接貸主が鍵を持ってきた。もちろんいつもの通り裸のママで。つまりキーホルダーをつけるなど、紛失防止のための他者への配慮はない。それを「客」に管理させるのだ。ただでさえ他人の家のあちこちに目配せするのも難儀であるのに、この本番直前の慌ただしさの中、そういう気分次第のイレギュラーに付き合わされるこっちの身になることも、一切ない。自分本位の一方的なルール変更を「柔軟」とよぶ独善。
その鍵を、先方の手によって机の上に置かれたままの状態にしておいたら、知らぬ間に貸主側の人間が持ち去って、私の「管理責任」が問われることになったわけだ。
私としては、私自身の忘れっぽさが災いしてはいけないから、ポケットにしまい込むなどせず、貸主が確かにそこに置いたという姿がウチのメンバーの記憶にもあり、また決してウチのメンバーが手を触れることのない机の上から移動させなかったのだ。まさか貸主側の人間が持ち去ろうとは思わずに。どうやらそこまで先読みして「管理」することを求められているらしい。
そもそも、その時間、そこに部外者がいてはならぬはずだ。この時点で契約不履行であるが(賃借時間内に隣室で部外者が電話する声にも大い迷惑している)、そういう認識はまるでないらしい。あくまで「貸してやってる」というスタンス。なるほど、初日に用意しておくと自分でいった使用料の領収書も、こちらがせっついてようやく出てくるわけだ。実に示唆的。
ともかく一方的に借主のせいだと言い切り、私が推測できる事態を指摘し、持ち去ったと思われるその人に事実関係を確かめてくれと言えば、頼み方がなってないと「説教」までしてくれる始末。
なんだろうか、これ? どんだけ殿様商売なんだか。
鍵の行方は案の定だったわけだが、まったく呆れてものもいえない。これだけ「客」をイヤな気持ちにさせる人間が、エンタテインメントを語るなど、笑わせる。
「役者」の気持ちは彼/彼女の主観だが、「役」の気持ちは客観なのだ。
その役を演じる役者が、役の気持ちをどうしたいと考えようが、それは彼/彼女の願望に過ぎず、役の気持ちの根拠になどならない。そのことをじゅうぶんにわかっていないと、しばしば表現が閉じてしまう。つまり、演じ手だけがその「つもり」で、観客に何も伝わらない=劇的効果をもたらさない。
では、何が役の気持ちの根拠となりうるか?
それはテキストの構造と、観客の「期待の地平」(H・R・ヤウス)だよ。
その「地平」に立って舞台を眺めるのが演出家というものだ。
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