自覚
権力の諸関連は一辞一義的でなく、多数の対決点、不安定性の根源を規定する。その根源のそれぞれが、争いや戦いや力関係の少なくとも一時的な逆転等の危険を含んでいる。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) November 1, 2013
この「対決点」の上に、選挙で選ばれた議員は立っている。それが民主主義における「権力」の根拠だ。
山本太郎は、彼自身が言うように、“天皇の政治利用”というつもりはなかったのかもしれない。もっと幼稚なパフォーマンスとして、安っぽいテレビドラマレベルのヒーロー像をなぞっただけのように思われる。だが彼は仮にも国会議員である。好むと好まざるとにかかわらず「権力」の側にいる人間だ。ならば憲法の制約を受ける。当然だ。憲法とは国家権力を縛るものなのだから。
アツさはときにバカと同義語、というのがかねてからの私の持論だ。今回のこれがまさにそのケース。バカは死ななきゃ治らないというから山本太郎もずっとこのまま、正義面して科学的根拠なきデマを振りまき続けるのだろう。それより呆れ果てるのは、「護憲」を標榜する左翼の中に、「脱原発」を蝶番とし、山本を擁護する者のいることだ。この欺瞞。いったい彼らの「信念」て何なのか?
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