傘
昨日は雨が降りそうだったから傘を持てと言ったのだ。だが今日結局雨は降らなかった。だからもう傘を置けというのだ。それを昨日言ったことと違うというなら、問題を根本的に理解していない。
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昨日は雨が降りそうだったから傘を持てと言ったのだ。だが今日結局雨は降らなかった。だからもう傘を置けというのだ。それを昨日言ったことと違うというなら、問題を根本的に理解していない。
夢を見た。
私が国会議員になったらしい。
副業は認められぬということで、芝居の演出を降りなければならない。
いやしかし、これは一年以上も前から決まっていたことなので、といったのだが、芝居を取るか、議員を取るかと迫られた。
議員の肩書きは要らぬ。けれど喉から手が出るほど歳費が欲しい。どうせ赤字の芝居のために議員の身分を投げ打つのは惜しいと思い悩んでいる。
昨日、稽古の休憩時間にお茶を買いに出たら、通路の木戸が開いていた。
この件に関して家主から二度もクレームがあり、うち一度は身に覚えがなかったのだが(先方の認識ではこれが私の「嘘」であり、イキザマに問題があるらしい)、以来メンバーには木戸の使用を禁じている。
また我々のせいにされたんじゃかなわないので閉めてやったが、使用料を払ってこんな余計な管理の責務を負うのか?
なんともバカバカしい話だ。
自分から「やる」と言い出したくせに無断で反故にするような人間は絶対に信用できない。こっちはそれを信じて準備するんだぞ? 手元に用意できてから相手に告知しろ。できてもいないのに、どうして未来の自分がそれを完遂している姿を楽観的に思い描けるんだ? 今までできてこなかった実績の延長線上にしかお前の未来はないというのに。
故郷の商店街は、いわゆるシャッター通り。郊外の大型ショッピングモールに客が奪われた結果だ。かつてその町で青春時代を過ごしたオッサンのノスタルジーとしては当然、旧商店街に思い入れがある。だが一方で、利便性は今の方が遥かに高い。
両極の間で価値観は宙づりとなる。
自分は常にソボクな善人で、世界は悪いオトナたちによって歪められている、などという世界観を、私は自作の劇の登場人物たちに決して許さない。
新聞記者が登場して単に「真実」を聞き出すようなタイプの芝居が嫌い。安直すぎる。
せめて聞き出したその「真実」もまた、話者の主観でしかないのだ、という視点くらいは欲しい。芥川の『藪の中』的な。
歌舞伎や新派のアンチとしての新劇、新劇のアンチとしてのアングラ、アングラのアンチとしての小劇場…というふうに、日本の現代演劇の本流はnをn+1が否定する形で連なってきた。
私は80年代に芝居をはじめ、いわゆる小劇場ブームを経験した世代だが、むしろアングラの系譜に属していた。nの視点でn+1を(嫉妬も含めて)苦々しく思っていたわけだ。
で、この頃文学の世界ではアメリカのミニマリズムが席巻していた。アングラ芝居をやりながら、私の愛読書はもっぱらレイモンド・カーヴァーやその弟子たちの小説だった。
私らの世代でこういう人って少なくないんだと思う。ゆえに、小劇場ブームが去った後の「静かな演劇」を抵抗なく受け入れられた。あたかも日常を模倣したような、“らしくない”スタイルの演劇が一過性の「出オチ」で終わらず、確固たるスタイルとしてむしろ本流となり得たのは、こういう背景があったのだと邪推する。
「定石」とは方法論の集積であり、これをくつがえすには、ひょんな「思いつき」なんかじゃ絶対にダメだ。その「思いつき」は、過去に誰もが思いついていたのであり、それが誰にもやられていないのは、やられていないだけのワケがある。結局オーソドックスに、地道にやるしかないのだ。
「いい芝居にしたい」と、芝居の関係者であれば誰もがいう。だがその“芸術的”動機の純粋性は、組織の秩序を毀損することの免罪符になどなり得ない。
権力の諸関連は一辞一義的でなく、多数の対決点、不安定性の根源を規定する。その根源のそれぞれが、争いや戦いや力関係の少なくとも一時的な逆転等の危険を含んでいる。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) November 1, 2013
この「対決点」の上に、選挙で選ばれた議員は立っている。それが民主主義における「権力」の根拠だ。
山本太郎は、彼自身が言うように、“天皇の政治利用”というつもりはなかったのかもしれない。もっと幼稚なパフォーマンスとして、安っぽいテレビドラマレベルのヒーロー像をなぞっただけのように思われる。だが彼は仮にも国会議員である。好むと好まざるとにかかわらず「権力」の側にいる人間だ。ならば憲法の制約を受ける。当然だ。憲法とは国家権力を縛るものなのだから。
アツさはときにバカと同義語、というのがかねてからの私の持論だ。今回のこれがまさにそのケース。バカは死ななきゃ治らないというから山本太郎もずっとこのまま、正義面して科学的根拠なきデマを振りまき続けるのだろう。それより呆れ果てるのは、「護憲」を標榜する左翼の中に、「脱原発」を蝶番とし、山本を擁護する者のいることだ。この欺瞞。いったい彼らの「信念」て何なのか?
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