デジャブ
ここで語られている、脱原発デモに対する“20年前のデジャブ”というのは、私もずっと感じてた。というか、大通公園で行われた「お祭り」に、当時そうとは知らずにバンドで参加させられそうになり、思いっきりブチギレた経験がある。
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ここで語られている、脱原発デモに対する“20年前のデジャブ”というのは、私もずっと感じてた。というか、大通公園で行われた「お祭り」に、当時そうとは知らずにバンドで参加させられそうになり、思いっきりブチギレた経験がある。
バカに芝居は書けないが、バカでなければ、やはり芝居は書けない。そういう意味で、劇作家なんか「チンピラ」くらいで丁度いい。
逆に最も忌むべきありようは、「世間」の価値観に配慮して、ガキの「正義」を“素朴”につぶやいてみせるカマトトだ。
ザツな現状認識による通俗的なカンドー物語など二重に胡散臭い。
登場人物の一人のデハケをたった数行後ろにずらしただけで、その後の台詞のニュアンスと、虚構内の「事実関係」が大きく変わった。そしてテキストが一段階「高級」なものになった。こういう瞬間に立ち会えるのが、推敲の醍醐味。
かようにテキストの生成過程を知るものは、稽古場で安易に台詞を変えたりできないものだ。少なくとも大いに躊躇する。それは作家に対する配慮ではない。テキストに対する畏怖だ。
自分の問題意識を、自分の書いたテキストが逆照射する。書いてりゃこんなことはしばしばある、というか、なければ「書いた」ことにはならない。芝居を「書く」とは決してイイタイコトを記す行為ではないんだ、ということを改めて思う。
何が論点なのかを明確にしないまま、その場の「空気」を読んで曖昧さに同調していると、ときにとんだしっぺ返しに合うことがある。
後付けの解釈により、自分の認識不足が咎められてびっくり仰天。よかれと思って同調した、その態度さえもが批判の対象となる。
蘊蓄はよーくわかった。で、作品が、それ?
多くの大人が最近の若者は「自分のことだけしか考えない」と非難するけれど、そうではない。彼らは他者の目を無性に恐れており、他者の承認を求めている。互いにジコチューをきびしく監視し合っている。他人のジコチューを告発する分だけ自分のジコチューも抑えつけている。『不幸論』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) October 21, 2013
そんなわけで、小島よしおの「そんなの関係ねえ」が登場したときには、何か「深い」ものを感じたのだけど、どうやら私の勘違いだったらしい。
権力の問題、政治権力の問題を統治性という問題の中に置いて考え直し、権力関係の流動的で、変更可能で、可逆的な側面に注目するならば、統治性という概念は主体という要素を理論的にも実践的にも経由せずに済ますことはできない。この場合主体は自己の自己への関係として定義される。-主体の解釈学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) October 20, 2013
フーコーがすでにここまで言っているわけでさ。なので、周回遅れの、旧態依然とした日本の左翼的「正義」に、めちゃくちゃ違和感あるわけ。 80年代の小劇場も、ポストモダンとかいって、ニューアカっぽい匂いをプンプンさせてたわけだけど、それが、どうだ。時代の寵児みたいに言われてた連中が、今、まるで旧社会党のような単細胞ぶりを披瀝して恥じもしない。結局、「何かある」ような顔をして何もない、からっぽだったってことだ。
要するに私が知りたいのは、社会(というか、あえて大衆といってもいいのかもしれないが)に対するこの違和感の正体。
一般にオッサンが流行に疎いのは、「狼がきたぞ!」というふれこみが嘘であるのを経験的に知っているから。
「同じ穴のむじな」といえば、言葉の意図が通りやすい状況で、しかし実際にひとつの穴に二頭の狢が肩寄せ合ってる情景を思い浮かべてしまい、違う違う、俺はそういうことが言いたいんじゃない、と思ってしまう。
話せばわかる、というのは逆説的だ。第一印象とのギャップが大きければそれだけ自分の「偏見」を恥じてしまう。むろん、第一印象がすべて正しいわけじゃないが、それと同様あるいはそれ以上に、「話せばわかる」というのも、ナイーブで怪しい“物語”にすぎない。
「わからない」という意味が、ほんとに「理解できない」のか、それとも「理解したくもない」という批判なのか、あるいは「自分はそんなこと考えもしない」という自己保身の装いなのか。
ことさら他人の幸せを望まない。それは不幸を望むことと本質的に同じ事だから。
怒りを道徳的に正当化しようとすると欺瞞になる。
「今日はもう閉店なんですよ」と言えばいいだけなのに、閉店時間の書かれた貼り紙を指さして「これが見えませんでした?」などという店主のいる古本屋へは二度と行かない。
「虎の威を借る狐」であるならまだしも、その「威」が先物取引というか「捕らぬ狸の皮算用」だったり、そうまでして己を偽装せねばならぬのかと、もはや滑稽を通り過ぎて哀れですらある。
遠い国の戦争や自国の“悪行”には饒舌なくせに、話題がこと拉致問題に及ぶと途端にダンマリをきめこむ“社会派”なんぞ、信用できるわけがない。
私の卒業した高校は駅から徒歩15分。
卒業して20年以上経つわけで、当然、駅もすっかり様子が変わったが、久しぶりに通学路を歩いてみて愕然とした。「シャッター通り」なんてもんじゃない。朽ちるがままの廃墟の群れ。
何もかもが右肩上がりだったあの当時、まさか駅前がこんな寂れ方をするとは想像もしなかった。郊外型大型店舗(イオン)が町の動線を変え、地方の市街地をダメにした、というのは定説だが、単にイオンを悪者にし、「古き良き商店街」のセンチメンタリズムに問題を矮小化する連中に、しかし私は与できない気持ちだ。 なぜなら消費者がそれを望んだのである。少なくとも利益を享受している。頭ではそう思うが、割り切れない気持ちも残る。
好き/嫌いとはべつの物差しが表現の世界にはあるのだ。
吉本隆明が言っている。「いいことを照れもせずにいう奴は、みんな疑ったほうがいいぞ。」(『遺書』)
通念的に正しいとされる言説を、疑いもなしに平気で口にできてしまうのだから、要するにそういう人間は自己批評性がないのだ。
年に一度のマンション管理組合の総会に欠席すると、事前に委任状を出すなどの正当な手続きを踏んでいたとしても、まるで「欠席」が大きな過失で、怠惰でどうしようもない欠席者に対する鷹揚な私たち、という気色悪い連帯感が出席者たちの間に生まれるのだが、私も含めてそこにいる全員が毎年必ず出席してるわけじゃなし、自分のことは棚に上げてよくいうよ、ってなもんなのだ。
右であろうが左であろうが、私がイデオロギッシュな演劇を嫌うのは、観客と作り手が芝居を通じて価値観を補完し合い、上書き保存するのを目的としているからだ。イデオロギーの“崇高さ”の下に、ホンや役者が技術的にどんなにダメでもひとまず芝居が成立してしまう。
保守と革新の明確な違いを定義するのは難しいが、「言葉」という観点から、両者はこう説明できるんではないか。すなわち、すでにあるいわく言いがたいものに言葉を与えるのが「保守」で、逆に、いまだないものを言葉によってあるように見せるのが「革新」である、と。
誰もがある局面では多数決の暴力の被害者だし、同時にべつの局面では加害者なのだよ。当然。
「カッコつける」を、ちゃんといったら「格好つける」だけれども、「括弧つける」の方が、しっくりくるような気が、しないでもない。つまり対人関係において、属性の一部を括弧にくくることで、互いの利益を得ようとする態度。
日本人は弁証法的合意形成が苦手だといわれるが、マンション管理組合の理事なんかやると、それが身にしみてわかる。噛み合わない話に「いや、だからあ!」と声を荒げそうになるのをぐっとこらえ、「食いつくとこ、そこじゃねえだろ」と腹の底で舌打ちしながらも、ご近所づきあいの作り笑顔で、見失われた論点が戻ってくるのを待つのであるが、すると思わぬ意見に目から鱗、ということもあり、やはり人の話は聞いとくもんだ、と一転殊勝な気持ちになったりもする。
絶賛して近づいてきたものは勝手に絶望して去って行く。
「わかりやすい」って、決して常に褒め言葉じゃないから。
次の次の信号を見ていて、結果、信号無視してしまうことがある。
その分野の「素人」だからわからないのは相手が悪い、という専門家に対する傲慢な態度は、違うんじゃないか。
「気をつける」って自分で書いて、そういや誰かが「きおつける」って書いてたことを思い出す。それはまだしも、「きよつける」って、いい大人がさすがにわざとだよね?
芝居が啓蒙的でなきゃいけないなんて決まりはないのだよ。
見ましたよ。DVDですが。
すごく面白かった。傑作といっていいんじゃないでしょうか。
映画としてとても清潔な印象。なんだろうかね、この清々しさは。
芝居で使用する音楽は、前回も前々回も、そして今度も、ロイヤリティフリーのもののみ。あ、「猫町」では一部既存のCD使ったか。著作権は切れていたがレコード会社に隣接権の使用料払ってる。
で、来年度に上演を考えてる芝居では、もういっそ音楽一切使わないつもり。
なのでJASRACは電話してこないでください。
形式の外に踏み出すには、前提として、形式の中に入ってなきゃならない。
見て見ぬふりする優しさだってあるだろう。
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