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2013年9月

2013年9月30日 (月)

おおかみこどもの雨と雪

細田守監督作品。
うーん、そっかあ。と、唸ってしまった。
全然悪くはないんだけど、うーん、そっかあ…。

まず、完全に〈ファンタジー〉の体裁で描けば余裕でクリアできる点が、現実のリアリティと衝突しちゃう。狼男の子供を授かった、というそれだけで、ほんらい大事件なわけだし、そのパースペクティブでいけぱ、戸籍どうすんの? 的な(ま、そこらは検診のくだりでちょっと触れられてはいるけど)問題が出てきちゃう。さらにいえば、そういう「噂」は田舎の方がむしろあっという間に広まるもんでしょ? プライバシーに対する「監視」の目が厳しいの。田舎ナメんな、と。

でもまあ、そういうツッコミは、この際いいや。問題はそこじゃない。
すでに多くの人が指摘してるけど、やはり一番引っかかったのは、母ちゃんのキャラの造形。
とくに物語後半、私はぜんぜん感情移入できなかった。

と、こう書くと、この作品にとても否定的な感じがするかもだけど、そんなことはないのよ。
優れた点がたくさんあるのは認めます。
認めるけど、うーん…。

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2013年9月29日 (日)

数学

大学入試の二次試験は数学だったが、今、センター試験の一問目すらまともに解けない。文系なんてそんなもん。だから、数学なんて役に立たないって結論にはならなくて、むしろ学べるときに必ず学んどくべきだと思ってる。

情報弱者

微小な低線量被曝リスクの“幻想”の浸透ぶり、用語の臨在感的把握の揺るぎなさを改めて実感したのだった。この期に及んでこういう情報弱者は生暖かく見守るか、黙殺するしかないのだろうね。馴れ馴れしく肩を組まれたら全力で振り払うが。

ワークショップ

戯曲のワークショップをやりたいもんだ。と、前から思っているのだけど、本気出したら殺伐とするし、出さなかったら意味ないし、なので、考えもの。

2013年9月24日 (火)

文脈

比喩や例え話を理解できぬ者は、たいてい文脈を読み取れていない。
翻っていえば、文脈を読み取る力のない者が、そもそも比喩や例え話を理解できるはずがない。

2013年9月23日 (月)

巧遅は拙速に如かず

巧遅は拙速に如かず、というけど、遅くて拙いんじゃ話にならない。しかしたいていこういう場合、本人には、それが「拙い」ものだという自覚がない。

擬史

1972年に「惑星ソラリス」の撮影で、タルコフスキーは一度来日している。来日はこれが最初で最後だったという。
で、そのとき、タルコフスキーに会った、という人と昔、知り合いだった。
どこかの小さな酒場だったか上映会の客席だったかで、一言二言会話を交わしたんだとか。ほんとか嘘か知らない。まあ、確かにそういうことがあってもおかしくはないんだが。
そういうタルコフスキーの擬史みたいなのを、新作戯曲に絡めようか、と思ったんだけど、アインシュタインでさんざんやられてるし、「だから何?」って感じもするし、つうわけでボツにしたのだった。

回顧録

思い出は美化されるものだから、回顧録的作品がセンチメンタルになりがちなのはある程度仕方ない。にしても、過去を現在の価値基準で安易に裁くことをせず、メタ視点で描くという創作態度をとるならば、むしろその作品自体が現在の価値基準を相対化し、そのまま批評として成立する。

2013年9月21日 (土)

映画にささげた魂 巨匠アンドレイ・タルコフスキー

2013年9月19日 (木)

<サンデー時評>私が改憲論者になったのは…

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130918-00000000-sundaym-pol&p=1

先日も、『毎日新聞』に埼玉県の六十代男性の、次のような投書が載った。
〈自民党は新しい憲法草案などで自衛隊を国防軍に変え、集団的自衛権の行使も可能にしようとしている。日本は軍隊を持って「普通の国」になるべきだという人々もいる。しかし、たくさんの「普通の国々」でできているこの世界は、テロや紛争が絶えることがない。
日本は戦争の苦い経験から平和国家という道を選んだ。六十八年間一度も戦争に巻き込まれずここまでやってきた。日本は戦争をしない平和国家であるというイメージを全世界の人々が持っていると思う。またそれ故に日本という国は信頼されている〉(九月六日付)

べつに護憲派であってもそれは本人の勝手だが、自己主張するならそれなりに説得力のあるロジックを用意しろよ。これじゃあ、警察がいても犯罪はなくならない、だから警察要らない、って理屈と同じじゃないか。いい大人が、こういうバカ丸出しのしょーもない詭弁を弄するから頭にくるのだ。

現実

そろそろ来年度の予定を具体的にせねば。
ホンはある。新作をやってもいいし、既上演の作品を自分の演出で再演してもいい。
いずれにしても問題は製作費。
小劇場で制作(最終的に経済的リスクを取るほんとの意味でのプロデューサー)やったことのある人ならばわかると思うけれど、演劇公演の費用構造って異常過ぎるんだよ。とかく映画に比べて芝居のチケットは高いといわれるが、そのチケット収入なんてスタッフの人件費と小屋代、稽古場代で簡単に吹き飛んでしまう。儲からないどころか完全に持ち出しなんだ。
金さえあれば何でもできるとは思わないけれど、芝居作りの障害の9割ぐらいは金の問題。これが現実。

2013年9月18日 (水)

脱力

「一番大事なのは思いやりではないでしょうか」とかいう結び。

2013年9月16日 (月)

アイロニー

素人考えながら「LNT(しきい値なし直線)仮説」がそもそもの諸悪の根源という気がする。
http://www.denken.or.jp/jp/ldrc/study/topics/lnt.html

これに関して生物学的知見を持つ人がもっと積極的に発言してくれればいいと思うのだけど、閉鎖的言論空間がそれを許さない。そしてその「真犯人」が、ある種の“信仰”=イデオロギーにもとづく、まさに言論に関わる者たちであるというアイロニー。

死後の世界

死後の世界は二つある。
ひとつは死んだ自分の行く世界。もうひとつは残された者の住むこの世界。
前者は正直どうでもいいが、問題は後者だ。

水を差す

自己相対化というのは己の信念に水を差すこと。その必要を理解しない人間は、「呪う」以外のあらゆることに向いていない。

受信機

どんなに正確な情報を発信しようと努めたところで、受信機がぶっ壊れていたんじゃ徒労に終わる。

限り

クサイことを言わせてもらえば、愛には限りがある。限りがあるから愛なんですよ。

2013年9月15日 (日)

自覚

あのさあ、何度も言うけど善人ヅラしてデマ拡散してるやつはテメエが「加害者」だってこと自覚しろよ。

2013年9月13日 (金)

拡散

震災関連では多くのデマが飛び交ったし、今も飛び交っている。
とくに「お涙ちょうだい」系の「いい話」に、同業者が簡単に引っかかり、デマ拡散に荷担してるのを見るにつけ、呆れるし、いったいどうなっているのかと思ってしまうけれども、信念に意図的に水を差すということをしない、つまり自己相対化の態度を欠いた彼らの作品を思い起こせば、まあ、納得がいく。

2013年9月11日 (水)

信じる

ちゃんとした肩書きを持つ研究者の話を、専門的なことは解らずともそのロジックは理解して納得するのと、肩書きなり大学名にほだされて、結論を「信じる」のとでは、まるっきり意味が違うから。

影響

エキセントリックな報道の責任も大きいとは思うけれども、結局「国語力」の問題なのか。いずれにせよ、鬼の首を取ったように騒いでる人々は、「影響」とはどんなものなのか、早く教えてよ。あるいはいい加減学習しろ。

ゆとり

おまえらに「ゆとり」を馬鹿にする資格があるのかよ? という立場をとってきたバブル世代の私だが、最近ますます、そう。

2013年9月10日 (火)

妄言

ああ、そうか。どうやら私は難しく考えすぎた。俗に言う“放射脳”の五輪がらみの妄言は、なんてことはない、単にいつもの「安倍憎し」なわけね。くだらねえ。
属人性や感情を排してものごとを考えることができない人間が、科学的見地に立って何かを客観的に判断するなんて、そもそもできっこない。これが居酒屋の政治談義ならほっときゃいいが、イデオロギッシュで教条主義的な人間の振りかざす独善的「正義」によって、実害を被っている人のいるのが問題だ。
あの連中が善人ヅラしてやってることは「お宅に不幸がありますよ」という、カルト宗教と一緒なんだよ。

説教

なんかよくわからん占い師みたいなのに芸能人が説教されて泣くテレビ番組であるでしょう? あれが気持ち悪くてしょうがないんです。

2013年9月 9日 (月)

感情

人間なんだからほっといたって何らかの感情が湧き起こる。冷めてるように見えたって、誰にでも必ず「内面」てもんがある。感情ばっかり肯定して理性を蔑ろにするのなら、殺し合うしかないだろう。

話せばわかる

話せばわかる、というのは逆説的だ。
そりゃあ同じ人間で、さらに母語まで同じであれば、何らかの意思疎通ができる。第一印象とのギャップが大きければそれだけ自分の「偏見」を恥じてしまう。
むろん、第一印象がすべて正しいわけじゃないが、それと同様あるいはそれ以上に、「話せばわかる」というのも、ナイーブで怪しい“物語”なのだ。

東京五輪

国連科学委員会は福島第1原発事故での健康への危険性はないと結論した。
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2947705/10829963

WHOも同様の報告書を出している。
http://www.who.int/mediacentre/news/releases/2013/fukushima_report_20130228/en/

もしもこれらが、またなんとかムラやら、巨大権力によって捏造されたものであるという、三流少年漫画みたいな陰謀論を採るのなら、もう勝手にしたらいい。どうぞ「こどもの未来」かなんかの為に見えない敵と戦っててくれ。

で、2020年の五輪開催地が東京に決まった。
上記のとおり、福島で安全なものが、東京で危険であるわけがない。こんなの、青っぱな垂らしたガキでわかりそうなもんだが、世の中には、青っぱな以下の大人もいるらしく、この期に及んで「放射能汚染」を理由に、東京五輪開催を憂えている。 
 
震災から二年半が経ち、我々は、得ようと思えばいくらでも科学的見地に基づく有意な情報を得られる環境にいる。にもかかわらず、彼らはそうした情報をまるで顧みない。対象の“臨在感的把握”(山本七平)による「空気」から一歩も出ようとしない。なぜか?
要するに、まじめに考えようって気がないのである。
そのくせ自己顕示欲だけは旺盛で、どこぞで聞きかじった与太話を(もちろん検証なしで)もっともらしく吹聴したがる。
そうやって被災地に「呪い」をかけたその口で、「五輪より復興を」なんてことを平気で抜かすのだ。これっぽっちの矛盾を感じることもなく。

2013年9月 8日 (日)

原発汚染水、「問題ない」と首相

【ブエノスアイレス共同】安倍晋三首相は7日午前(日本時間同日深夜)、2020年夏季五輪のプレゼンテーション後の質疑で、東京電力福島第1原発の汚染水漏れ問題に関し「全く問題はない。解決に向けたプログラムを決定し、既に着手した」と強調した。同時に、影響が福島第1原発の港湾内0・3平方キロメートルにとどまっており日本の水と食品が世界最高水準の厳格な安全管理を行っていると説明した。

実際、問題ないから、私は今でも首都圏に暮らしている。「問題ある」というなら、どういう問題があるというのか?
私はオリンピックの開催地がどこであろうと興味がないが、東京が開催地として「問題あり」だという人間が、なんでその東京に呑気に暮らし続けているのか、さっぱり理解できない。さっさとどこでも「安全」なところへ避難したらいいではないか。

今回の汚染水6万トンは、海(1.35×10^21 L)からするとちょっとなので、
海水で希釈すれば無毒になります。
海水は1.35×10^21 L。つまり13.5垓(がい)Lです。
垓は兆の1億倍です。
6万トンは6万x1000Lです。
高濃度汚染水が2Sv/Lだとすると、割れば薄まった時の濃度が出ます。

一緒に計算してみましょう。
海水13.5垓(がい)Lは、
1,350,000,000,000,000,000,000リットルです。
汚染水6万トンは
60,000,000リットルです。
汚染水が一リットル当たり2Svだとすると、全体で
120,000,000シーベルトぶんです。
それを海水で割ると、濃度は何シーベルトか?
120,000,000÷1,350,000,000,000,000,000,000 シーベルトです。
120^6÷135^19 です。
0.88^-13です
0.000000000000088シーベルトです。
0.00000000008ミリシーベルトです。
0.00000008マイクロシーベルトです。
0.00008ナノシーベルトです。
0.08ピコシーベルトです。
80フェムトシーベルトです。

どうですか?体に害がありそうですか?
怖いですか?

ちなみに、昔から海水にはセシウムもストロンチウムも含まれています。
これは、大気圏内核実験などで放出されたものですね。
2011年の海の放射性物質の濃度の報告書が、今年、2013年の3月に出ました。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/OSEN/housha/ho2011.pdf

21ページを見てください。
2010年よりはチョイ増えてますがほとんど変わってないですね。
来年の報告で、どこまで増えるんでしょうかね。。。
(メールマガジン「生物学博士いいなのぶっちゃけていいっすか?」)

恐い、というなら何がどう恐いのか、想定されるリスクをはっきりさせろ。
知りたい、という態度をとるなら、最低限知る努力をしろ。
国のやることにはとりあえず何でもケチつけとけば「正義」であると思っている、中学生並みの幼稚な頭の持ち主は、その存在がすでに「罪」である。善人ヅラしてさまざまな風評被害に荷担しながら、その自覚すらないのだから。

2013年9月 7日 (土)

欺瞞

疑いようのないモラルを原理主義的に引き合いに出し、物事を単純明快にアツく語れば、なんとなく正しげな空気を身に纏うことができる。
だが、現実はそう単純にはできていない。そんなことは誰でも知っている。知っていながら何故そうするか? 
ラクしておのが正義を担保できるからである。
俗情と結託して自明性をテコにすれば、信念の正しさを顕示するのに、それ以上の説明は必要ないというわけだ。彼らに賛同するのは頭の悪いガキでもできるが、反論するにはまず、互いに共通の文脈を用意せねばならぬワケで、そもそも聞く耳持たぬドグマの住人との間に、これを構築するのはひどく手間と時間がかかる。
そしてそのコストはこちら持ち。
私が彼らの“善人アピール”を「欺瞞」と蔑む所以である。

冷めた目

通念を鰯の頭みたいに疑わないのも、これを単に否定するのも、コインの裏表。結局は同じこと。
そうではなしに、通念が通念であるワケを考える。すると己の実感に「世間一般」とのズレが生じてくる。
このズレを、「個性」と呼ぶなら、個性は「基準」からの差異に他ならない。
この差異の認識が自己相対化というものだ。
もしも個性的たらんとするなら内省的であるだけではぜんぜん足りない。むしろ、「内省的な私」すら俯瞰する冷めた目こそが必要なのだ。

2013年9月 6日 (金)

問題意識

「問題意識」の共有とかいっちゃって、プロパガンダに導かれた観客が、劇場で互いにおのが善人性を承認し合う気色悪さ。

2013年9月 5日 (木)

極端なことをいえば、私=あなたがそこに存在するだけで、他の何かが失われているんである。
私はそれを「罪」などとは思わない。
「罪だ!」と我先に宣言し、その分だけ自分はあたかも清い何かであるつもりでいる、そんな浅はかで薄汚い根性こそが「罪」だと思う。

正面から答えていない

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130905/k10014298371000.html

イギリスのインターネットメディアの記者は、「東京は安全性を強調するばかりで、この問題に正面から答えていない。これは深刻な問題で、もっと真剣に考えるべきだ」と指摘していました。
また、アメリカの通信社の記者は、「会見の答えには満足できない。この質問はこれからも聞かれ続けるだろう」と話していました。

「正面から答えていない」とかいうけれど、まさか会見の場に専門家を連れてきてすべてをイチから説明するわけにもいかないし、仮にしたところで記者に理解できないでしょ。こういう質問の出ること自体、希釈の概念すらないって証拠なんだから。文脈を共有してない相手に端的に回答するなんて無理に決まってんだよ。

2013年9月 4日 (水)

経験

経験者にしかわからないことがある一方で、経験者には決して語り得ぬ真実っちゅうものもあるんだよ。

2013年9月 3日 (火)

感情

やたら感動しまくる人が、俗にいう醒めた人より、豊かな感情を持っているとは、まったく思わない。

愚か者

『2013年9月2日、日本の村山富市元首相が、日本の現行憲法を変えることは絶対に許してはならないとする文章を人民日報に寄せた。』

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130902-00000016-rcdc-cn

愚かな左巻きが愚かな信念を貫く。愚か者の一生としては筋が通っているが、89才になってまだ、やっていいことと悪いことの区別もつかぬらしい。
これが主権国家であるはずの日本の首相経験者なのである。やれやれ。

共通点

左巻きにありがちな、やたら「友好」を口にする偽善者どもも気色悪いが、民族主義的なヘイトスピーチを正当化する連中もさらに気持ち悪い。両者の共通点は根拠の薄さに無頓着な頭の悪さ。

2013年9月 2日 (月)

モラル?

大江氏「脱原発をモラルに」 講演会に2千人
作家の大江健三郎さんら脱原発を訴える知識人でつくる「『さようなら原発』1千万人署名市民の会」は1日、東京・日比谷公会堂で講演会を開き、大江さんが集まった約2千人の聴衆に「原発をやめ、再生可能なエネルギーで電力を作り出していくことを日本人の根本的なモラルにし、現実化したい」と訴えた。
大江さんは「政府が原発再稼働を一挙に進めていることに日本人が黙っているのは悪徳」と批判。「脱原発を進める際には年月を提示することが日本人の感受性の上で必要」と主張した。
講演会では、京都大原子炉実験所助教の小出裕章さんが「原子力は他人の犠牲の上にしか成り立たない」と原発の危険性を解説。

http://www.47news.jp/CN/201309/CN2013090101001547.html

もはやエネルギー政策云々ですらなく「モラル」ときた。
脱原発を唱える者がいたっていいが、こんなドグマじゃ話にならない。独善的な左翼の遊戯に付き合ってるほど暇ではない。

忘れてはならない

神妙な面持ちでこの紋切り型を口にしさえすれば、“常識人”として誰からの批判も受けないし、何事かを言ったことになる。そう高を括っているのだろう。
「忘れぬ」先に何があるのか? それを示さぬ以上、俗物の思考停止を生温かく正当化しているだけではないか。

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