呪い
たとえば福島県産の桃を私は平気で食うが、それは、被災地への「同情」やら「思いやり」からではない。微量の放射線を気にしすぎることが科学的に無意味だからだ。私は「優しい」人間でありたいとは全然思わないが、不合理な人間ではありたくない。
「安全」のハードルを上げておくことに越したことはない、という考え方があるが、震災直後ならまだしも、すでに二年半の時が経ち、有意な情報も得られる環境で、いまだ定量的なリスク分析をしようとしない人は、風評被害の加害者といわれても仕方がないと思っている。
こういう人々が、被災地に「呪い」をかけているのだ。
「呪い」の主は常に通念的な正義を身に纏う。
つまり誰からも批判されない(であろう)、口当たりのいい情緒的な言葉で、おのが善人ぶりを強調する。その場その場で、言葉や視覚からの「印象」に従い、おのが「優しさ」を発揮するから、論理に一貫性がなく、またその自覚もない。
結果、ときに被災地との「絆」をいい、その同じ口で、デマの拡散に荷担するのだ。
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