躊躇
「正義」なんていうものは、突き詰めればすべて「独善」だ。「愛」が「自己愛」に過ぎないように。だからといってニヒリズムに陥って絵になるのはせいぜい中学までで、大人はそれでも社会の中で、さまざまな決断を迫られながら、生きていかなきゃならない。
しかし一見ペシミスティックなこの前提が、あるとなしでは、全然違う。少年漫画的な情熱に自ら水を差し、短絡的な「正義」を振りかざすのを躊躇うことができるから。
何度も言うが、アツさはときにバカと同義語なのだ。
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「正義」なんていうものは、突き詰めればすべて「独善」だ。「愛」が「自己愛」に過ぎないように。だからといってニヒリズムに陥って絵になるのはせいぜい中学までで、大人はそれでも社会の中で、さまざまな決断を迫られながら、生きていかなきゃならない。
しかし一見ペシミスティックなこの前提が、あるとなしでは、全然違う。少年漫画的な情熱に自ら水を差し、短絡的な「正義」を振りかざすのを躊躇うことができるから。
何度も言うが、アツさはときにバカと同義語なのだ。
「何でもできる」は、たいてい「何もできない」と一緒。
「はい今、私、面白いことしました~」といわんばかりの、演者の“ヘン顔”的アピールは、観客に対して負の効果しかないと知れ。
優れた役者は「宝」を持っているんじゃない。宝を掘り当てた経験と、鉱脈のありかを嗅ぎつける“鼻”を持っているのだ。一度掘り当てた「宝」を後生大事に持つ者は、むしろ怠惰である。そんなものは今となっては何の役にも立たない。
「日常を描く」というのは、通念を補強するってことじゃない。逆だ。そいつを異化してやること。
演劇なんて、なんでもありだが、「なんでもあり」っていうのは、何をやっても批判されないってことじゃないから。
「AはBの10倍の汚染」といったとき、「10倍だって、そりゃたいへんだ!」と、「10倍」という「印象」でいちいち騒ぎ立てるんでなしに、「何をもって10倍なのか?」「それによって具体的に何が起こると推測されるのか?」と、義務教育レベルでフツーの疑問を持ちたいものだ。でなゃ現実への対処のしようもない。
知りたいという態度を取るなら、知る努力をしなさいよ。閉じた集団のパラダイムに浴するんでなしに、信念に水を差せ。
一昔前に流行った映画『踊る大捜査線』で織田裕二の吐く台詞。
「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」
この、いかにもテレビドラマ的な、お気楽な末端のヒロイズムが大嫌い。
猫の糞尿が近隣トラブルとなってるらしい。
私はつい、トラブルのその先のことを、あれこれ妄想してしまう。
ピアノの音に我慢してきた愛猫家は反撃に出るだろう。
路地での子供のキャッチボールも槍玉に挙がる。
誰かの過去の犯罪歴。
どこの奥さんとどこの旦那が不倫してるとの噂話…。
こうしてトラブルは増幅され、今まで蓋をされてきたご近所同士のサマザマがあぶり出されて収集のつかぬことになる。
そのとき当の猫は、我関せずといった顔で、ふらりとどこかへ旅立っているのである。
18歳から20歳まで札幌駅近くのアパートに暮していた。
数年前、およそ20年ぶりにその辺りを歩いてみると、風景は、当時の面影を残しつつも、当然ながら大きく様変わりしていた。
しかし目を閉じると、思い出されるのは今の風景ではなくて、やはり20年前のそれなのだ。たとえば札幌駅北口のロータリーは砂利敷きのタクシー置き場だった。
そんな、どうでもいいような記憶が、昨日のことのように鮮明に蘇るのだ。
「こんなホンに付き合わされて俳優が気の毒だ」という、根拠なき高みからの、紋切り型の「同情」の仕方があるが、こんなふうに己の「物語」を相手に一方的に押しつけ、何事かをわかった気になっている俗物を、なかなかうまく茶化したホンが、まさにそういう俗物に、おそらく茶化された自覚もないまま、「こんなホンに付き合わされて俳優が気の毒だ」とコメントされてて、笑ってしまった。
現実に起こった事故や事件を前に、彫琢された言葉で嘆き悲しんでみせたり、華麗に情緒に流されてみせるのが、文学やら演劇やらの役割ではないはずだ。
人間は考える葦である、とパスカルはいったが、だとすれば、考えるのを止めたらそれはもはや人間ですらなく、ただの葦だ。
つくづく思うのは、論理的思考の必要。
タブロイド紙のミスリードを見抜くのは難しくとも、筋の通った反論を読解できる「国語力」くらいは身につけていたい。その上で、どちらの言い分に信憑性があるかを自分の頭で、自分の常識に照らし合わせて判断すればいい。
信じる/信じない、どちらにせよ、知りたい気持ちが本当にあるなら、その現象が起こるメカニズムに関心を持って当然。翻っていえば、メカニズムに関心がないようならば、その程度のもんに過ぎない。
「低線量の被害はまだわかっていない!
という人がいます。が、これは間違いです。本当は、
低線量の被害は、わからないくらい小さいことがわかっている!
です。」
(メールマガジン「生物学博士いいなのぶっちゃけていいっすか?」)
とにかく声がでかいだけのバカが発する騒音で、専門家の有意な声が届きにくい状況になっているのが腹立たしい。
当事者意識を持てとはいわないが、業務の遅れがそれだけクライアントの資金繰りを悪化させていることにも思いが至らず、そういう事態を避ける努力すら怠るのなら、業者としての存在価値がない。
多くの人が言うように、ルースターズのアルバムは、大江脱退直前の「φ」が最高傑作だと思う。
これとthe cureの音楽で、20才の頃の気持ちに戻れる。
前に「呪い」について書いたが、今、ああ、そうか、と思い至った。
東日本大震災からしばらく、いろんなアーティスト(含自称)が、「こんなことしていていいんだろうかと自問した」とか、判で押したように同じことを口にし、またそれに対する反応も一様に好意的で、この間主観的な振る舞いの横溢に、私は薄気味悪ささえ感じたもんだが、要するに彼らと「呪い」の主とは同一人物か、少なくともメンタリティが同根なのだ。
自分で見聞きしたことに高い優先順位を与えるのは人の感情として当たり前だが、この「当たり前」を逆手に取るのが詐欺師の手法。
たとえば福島県産の桃を私は平気で食うが、それは、被災地への「同情」やら「思いやり」からではない。微量の放射線を気にしすぎることが科学的に無意味だからだ。私は「優しい」人間でありたいとは全然思わないが、不合理な人間ではありたくない。
「安全」のハードルを上げておくことに越したことはない、という考え方があるが、震災直後ならまだしも、すでに二年半の時が経ち、有意な情報も得られる環境で、いまだ定量的なリスク分析をしようとしない人は、風評被害の加害者といわれても仕方がないと思っている。
こういう人々が、被災地に「呪い」をかけているのだ。
「呪い」の主は常に通念的な正義を身に纏う。
つまり誰からも批判されない(であろう)、口当たりのいい情緒的な言葉で、おのが善人ぶりを強調する。その場その場で、言葉や視覚からの「印象」に従い、おのが「優しさ」を発揮するから、論理に一貫性がなく、またその自覚もない。
結果、ときに被災地との「絆」をいい、その同じ口で、デマの拡散に荷担するのだ。
目的語を省略するのが今どきの流行りなのか?
それとも単に、使い慣れない難しげな単語を使ってみたら、手に負えず、頭の悪さが露呈してしまったってだけ?
http://togetter.com/li/549782#c1193225
“放射脳”と揶揄されるのも無理はない。
〈解らないものは恐いと感じるのが自然。〉というなら、少しは解る努力をしたらどうだ?
己の思考の怠慢を棚に上げて、「子供のため」とかいっとけば、デマで他人に損害を与えても免罪されるなどと思ったら大間違いだ。甘ったれるのもいい加減にしろ。
動機の純粋さ、などというものは、いかなる場合も根拠として危うすぎる。
経験主義に偏重すれば、お前は俺に生まれたことがないのだから俺の何をも知り得ない、ってことになる。
怒りの共有による結びつきは、いつでもその矛先がこちらに反転する可能性を含んでいる。
とにかく「家族の絆」とかいっとけば、誰からも批判はされず、おのが拙劣な思考も「素朴さ」に変換できるという、ナメた考え。
改憲に関する賛否はもちろん、あっていい。あるべきだ。
だが、「戦争のできる国」「軍靴の音」「戦前回帰」などという手垢にまみれたレトリックで、改憲論議そのももの阻止を図ろうとする者を、私はまったく信用しない。
こんないかにも左翼の紋切り型を、恥ずかしげもなく口にできてしまうその時点で、すでに自己批評性のないことは示されているし、そんな人間の話をまともに聞くほど、私も暇ではないのだ。
いかにもリベラルな司会者げな、まさにその「げ」を演じようとして、トンチンカンな論点を弄ぶことになった東大卒元セクシー女優(?)だが、私がこの女の気に入らないところは、かように低く見積もったワイドショウ的俗情と結託することで、電波芸者としての食い扶持を維持しようというあさましい魂胆が透けて見えるからだ。まあ、実は台本読んでるだけかも知れないけどね。
80年代のいわゆるニューアカに対する批判に「行き過ぎた相対主義」というのがあったが、その反省の結果が、昨今いろんな局面で頻繁に目にするドグマチズムであるならば、反省などしなければ良かったのだ。
『CO2削減のために、冷房時の室温を28℃にしてもオフィスで快適に過ごすための様々な工夫が「クールビズ(COOLBIZ)」です。』(環境省)
正直、これがこんなに定着するとは、思っていなかった。おっさんらのネクタイは、もっと頑な意志をもって締められていると思っていたが、案外そうでもなかったというわけだ。
「だって合理性からいって、そりゃそうでしょ」というのは結果論で、もしも定着しなかったら、「民間の気持ちがわかってない」「くだらないキャンペーンに税金をいくら使った」と、大衆はその“リンチ体質”を遺憾なく発揮し、提唱者を袋だたきにしていたはずだ。
世界は悪意に満ちている、というのはホントだが、そう嘯いて、善悪の二項対立の枠組みで、陳腐な陰謀論を撒き散らすその者こそが、「悪意」の主成分であると知れ。
夏休みの宿題で一番厄介なのが「読書感想文」ではないか?
めんどくさくとも、やりなさい。自分の「感想」が言葉でできてると、知ることができるから。
放射性物質は集まれば集まるほど危険で、最も安全なのはどんどん薄めて稀釈することなのだが、その危険な方、危険な方へと事態を進めることを主張するのも、「ほら危険じゃないか!」と騒ぐのも同じ連中なんだから、これほど間抜けなマッチポンプもないもんだ。
— akoustam (@akoustam) August 7, 2013
雑な思考をイデオロギーで補強するからいつまで経っても合理的な判断ができないんだ。参照先は根拠なき信念でなく科学であるべき。
暑いが、我が家はこの夏、エアコン使ってません。一切。
今日は関電管内の電力使用率が95%を超えたという。こういう綱渡りの状態で、「電力は足りている」とか言えてしまう能天気が、いまだそこそこ存在するのがスゴイ。それともまたお得意の陰謀論で、「電力使用率」も原子力ムラの捏造ということに、彼らの中ではなっているんだろうか?
いずれにせよ、原発即時停止を唱える者は、まさかこの夏、エアコンなんか使ってねえよな?
あえてリンクは張らないけれど、めっちゃ文章のうまい女の子のブログを見つけてしまった。
意識的にか無意識的にか、やや舌っ足らずな文体で、平易な言い回しでもって物事の核心を突いてくる。もう、それ自体が、「である」調で通念をなぞる、空疎なオトナの言説への批評となってしまっている。ブログはコメントがつけられる設定になっているのだが、そこに寄せられた数々の言葉の陳腐さが、結果的に彼女の文才をより際立たせている。
職場の描写がリアルなので、おそらく書かれたままの環境に書き手はいるのだと思うんだけど、純文学なら副業持ってて当たり前だし、やっぱりプロの「覆面」なのかなあ? いや、それはプロを買い被りすぎか。
「そうだよ、な?」と肩を組まれて黙っていたら自分も認めたことになる。だからその手を振り払うのだ。
偽善者の振りかざす、独善的で一面的な薄っぺらいヒューマニズムによって、深く傷つけられる者がある。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130803/plc13080303080004-n1.htm
久々にぎょっとした。朝日新聞など一部メディアが繰り広げている「麻生太郎副総理ナチス発言」祭りに、である。きのうの朝日新聞を見ると、1、2面と政治、社会面、それに社説まで動員しての大騒ぎである。
▼麻生氏は7月29日、都内で開かれたシンポジウムで「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気がつかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね?」と発言した。確かに字面だけをみれば、あたかもナチスの手法を称揚しているようにみえる。
▼在米のユダヤ系人権団体が「どのような手法がナチスから学ぶに値するのか」と非難したのもうなずける。しかも、ナチスは憲法を改正も制定もしておらず、形の上でワイマール憲法は戦後まで存続していた。
▼首相経験者であり、しかも政権の柱である副総理として軽率極まりない。ただ、彼の肩を持つ義理はないのだが、前後の発言を詳しく点検し、当日会場にいた記者や傍聴者の話を聞くと、だいぶ様子が違う。
▼討論者の一人として参加した麻生氏は「(憲法改正は)喧噪(けんそう)の中で決めないでほしい」と改正積極派が多い聴衆に向かって何度も繰り返している。「ナチス発言」も彼特有の皮肉な口調で語られ、場内に笑いも起きたという。ある傍聴者は、「ナチスをたたえているようにはとても聞こえなかった」と話す。
▼朝日新聞などが、シンポジウム翌日に一行も報じていないのが何よりの証拠である。野党は召集された臨時国会で追及する構えだが、麻生氏はすでに発言を撤回している。麻生発言を奇貨として「改憲派=ナチス支持者」の印象操作をしようとしているのは誰か? ナチスが得意だったプロパガンダ(宣伝戦)に乗せられてはならない。
左翼的通念に寄りかかり、己の思考の怠慢を陳腐な陰謀論で隠蔽する。
その罪深さを、震災から二年以上経ってなお理解できないバカを目にするにつけ、ほんとうに絶望的な気分になる。
さして「思想」と呼べるほどのものがあるわけでもなく、戦後日本教育に支配的な「空気」に目配りしつつ、なんとなく左寄りの優等生的発言をしておけば、進歩的知識人ぽい、と思い込んでる人間を、私は、うすらバカをもじって「うすら左翼」と呼び蔑んでいるのだが、このうすら左翼の「思考停止」こそが、マスメディアの恰好のエサとなり、今回のような下劣な「騒動」が繰り返される最大の要因となっているのだ、と考える。
まず、バカでも大新聞の社説が書ける、という事例を以下に示す。
麻生氏ナチス発言 撤回で済まない重大さ
何度読み返しても驚くべき発言である。もちろん麻生太郎副総理兼財務相が憲法改正に関連してナチス政権を引き合いに「あの手口、学んだらどうかね」と語った問題だ。麻生氏は1日、ナチスを例示した点を撤回したが、「真意と異なり誤解を招いた」との釈明は無理があり、まるで説得力がない。まず国会できちんと説明するのが最低限の責務だ。
麻生氏の発言は改憲と国防軍の設置などを提言する公益財団法人「国家基本問題研究所」(桜井よしこ理事長)が東京都内で開いた討論会にパネリストとして出席した際のものだ。要約するとこうなる。
戦前のドイツではワイマール憲法という当時、欧州でも先進的な憲法の下で選挙によってヒトラーが出てきた。憲法がよくてもそういうことはある。日本の憲法改正も狂騒の中でやってほしくない。ドイツではある日気づいたらワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口、学んだらどうかね−−。
「憲法がよくても……」までは間違っているとは思わない。問題はその後だ。「ナチス憲法」とは、実際には憲法ではなくワイマール憲法の機能を事実上停止させ、ナチス独裁体制を確立させた「全権委任法」と呼ばれる法律を指しているとみられる。麻生氏の史実の押さえ方もあいまいだが、この変化が後に戦争とユダヤ人虐殺につながっていったのは指摘するまでもなかろう。
いずれにしても麻生氏はそんな「誰も気づかぬうちに変わった手口」を参考にせよと言っているのだ。そうとしか受け止めようがなく、国際的な常識を著しく欠いた発言というほかない。麻生氏は「喧騒(けんそう)にまぎれて十分な国民的議論のないまま進んでしまったあしき例として挙げた」と弁明しているが、だとすれば言葉を伝える能力自体に疑問を抱く。
憲法改正には冷静な議論を重ねる熟議が必要だと私たちも主張してきたところだ。しかし、麻生氏は討論会で自民党の憲法改正草案は長期間かけてまとめたとも強調している。そうしてできた草案に対し、一時的な狂騒の中で反対してほしくない……本音はそこにあるとみるのも可能である。
米国のユダヤ人人権団体が批判声明を出す一方、野党からは閣僚辞任を求める声も出ている。当然だろう。これまでも再三、麻生氏の発言は物議をかもしてきたが、今回は、先の大戦をどうみるか、安倍政権の歴史認識が問われている折も折だ。「言葉が軽い」というだけでは済まされない。
2日からの臨時国会で麻生氏に対する質疑が必要だ。安倍晋三首相も頬かぶりしている場合ではない。(2013年08月02日 毎日新聞)
「何度読み返しても驚くべき発言である。」とは、いったい何を何度も読み返したのか?
まさかあの、文脈から切り離された「一部分」であるまい。仮にも新聞記者なら当然、すでに報じられている「全文」を読んでいるハズだ。それで、〈「誰も気づかぬうちに変わった手口」を参考にせよと言っているのだ。そうとしか受け止めようがなく〉という結論に達したのであれば、「驚くべき」は、この記事を書いた記者の言語感覚、読解力の欠如こそだ。呑気に他人の「言葉を伝える能力自体に疑問を抱」いている場合ではない。
バカにも新聞の社説を書く自由はあるのかも知れない。しかし厄介なのは、それがいまだ少なからぬ「権威」を持っていることだ。
麻生副総理とイデオロギー的に対立する連中は、この明らかな「曲解」に目を瞑り、「敵」を貶める材料としてニュース=権威を活用する。また、情報リテラシーのない者たちは、がんらい思考することに怠慢なので、発言の真意などもはやどうでもよく、「権威」を表面的に模倣することで何事かを言った気になる。そのくせ「政治家は発言に責任を持つべき」などと、まるで空虚で無責任な紋切り型を口にしながら、庶民=善、国家権力=悪という、己の知性サイズに合った単純な二元論を上書き保存し、「権力者」の揚げ足を取ったことに幼稚な快哉を叫ぶのだ。
そうして大衆の間に、ある傾向の“空気”(塩野七生)が醸成され、動かぬものとなる。これは、いわゆる「従軍慰安婦」問題と同じ構造だ。
こんな下品でくだらないことを、日本の新聞はいまだ性懲りもなくやっているのだ。
我々はこの情報操作にこそ危機感を持つべきであり、怒りの矛先を向けなければならないはずだ。
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