喜劇
笑い=面白さ、ではないことは大前提として、「笑い」の数の総和が「喜劇」の印象にまるで結びつかないどころか、手数の多さによってむしろギャグがインフレを起こし、またそれらが構造化されていないために、「単調さ」だけが後から思い出されるという、そんなよくある観劇体験。
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笑い=面白さ、ではないことは大前提として、「笑い」の数の総和が「喜劇」の印象にまるで結びつかないどころか、手数の多さによってむしろギャグがインフレを起こし、またそれらが構造化されていないために、「単調さ」だけが後から思い出されるという、そんなよくある観劇体験。
「虚しくなる」とか「脱力した」とか、あたかも己の主張の正当性が自明であるかのごとき言いぐさで、思考の怠慢を棚に上げ、手垢まみれの情緒に逃げ込む薄汚さよ。
こちらの投げた問いの束を、矮小化して投げかえすのは止めてくれ。
あたかも「変化」そのものに価値を見るような風潮が、ある種の人々の間にはあるようだけれど、変わった結果がどうかでしょ、当然。
親しき仲にも礼儀ありというが、べつに親しいわけでもないのに礼儀がないのはどういうわけだ?
役者にとって心理的な裏付けというのは板の上にある根拠ではあるが、それが目的ではないと肝に銘じるべし。
偏見に基づく差別というのは理性によって乗り越えられるべきだ。
特殊な主観を持ち出して、おのがイノセンスを主張することに意味はない。
むしろそれは今そこにある問題を隠蔽する行為であると自覚すべきだ。現実の改善という観点からは、無益どころか有害ですらある。
「信念」と「事実」は区別したい。
そして事実には、当事者にしかわからぬ事実もあれば、傍観者だからこそ知る事実もあるのだ。
日頃、私たちが自明なものとしている「正しさ」の概念も、近代という“OS”上に成り立つ“アプリ”に過ぎないのだなー、という認識。
現実と虚構のパースペクティブの違い。その境界を「慣れ」が見えにくくする。
そうして現実のパースペクティブ=真らしさに従った結果、しばしば表現が「閉じた」ものになってしまう。この自覚。大胆に嘘をつく必要。
私が体験していてあなたがしてないことがあるように、あなたが体験していて私のしてないことがある。
それだけだ。
あたかもそれが特別な何かであるかのような口ぶりで、しかし結局通念を補強し「上書き」するだけの情報しかもたらさないなら、そんなものははじめからいらない。
絶賛して近づいてきた者は勝手に絶望して去って行く。
通俗的な「正義」やら「優しさ」やらを、簡単に、やたら口にしたがる人間は、しばしば自分で見聞きしたインパクトのある体験に、「自分で見聞きした」ということを最大の理由として、耽溺してしまう傾向があるらしい。
自己相対化する習慣をまるで身につけていないからだ。
ゆえに、そんな彼らほど、他人を傷つけることに無頓着なのだ。「傷つけた」ことにすら傷ついて、すべてをぼんやりした心の問題(そのメカニズムは決して論理的に語られない)へと還元し、自己愛の滋養としてしまう。
虎の威を借る狐、であるならまだしも、その「威」が先物取引というか、捕らぬ狸の皮算用だったり、もはや滑稽を通り過ぎて哀れですらある。
優しい人になりたいならば、優しげな言葉で我が身を装飾するのでなしに、まずは自分の残酷さを引き受けなさいよ。
「経験」は軽んじられないが、同時に主観を補強するもので、それの偏った参照はしばしば彼/彼女を事実と異なる思い込みに導く。
その自覚がない者が、論理の曖昧さを脇に置き、自らを正当化するために俗情を利用するのだ。これを「欺瞞」と呼ぶ。
かつてサリンを撒いた新興宗教団体は、洗脳により信者を狂気へ導いたと一般的にはいわれているが、私は必ずしもそうは思っていない。あらかじめ彼らに備わっていた思考回路の脆弱さが、洗脳によって顕在化したに過ぎない。
狂気は今もそこにある。
渋谷駅前のノイジーマイノリティを通りすがりに目にし、そんなことを思う。
宮台真司はいう。
沖縄の問題をとっても、尖閣の問題をとっても、日米関係・日中関係すべての問題をとっても、呆れ返るような非合理性、戦略の無さ、あるいは「木を見て森を見ず」。(略)その理由は残念ながら、僕の言葉で言えば、未だに任せてブーたれるだけの「愚民」だらけということですよね。引き受けて考えることをしない。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw190914/2
そしてそれが「政治参加」だと思っているのだから、どうしようもない。
Twitterである人がつぶやいた。
「放射脳の一番の問題点は「0か100でしか考えられない」という所。安全派の99%は「福島の線量は安全」と言ってるだけで放射線自体が安全だと言ってる人は皆無だ。これに対し放射脳は「うわ。こいつら安全だと言ってる!ウソツキだ!」となるわけ。1000SVを一瞬で浴びて生きてる人は居ない。」
要するに“放射脳”な人というのは論理的思考力が著しく欠けているのだ。
ゆえに何が論点なのかも自覚しない。ぼんやりした「印象」で、ものごとを善悪の二元論に落とし込み、通念的な絶対「善」を盾にしてしか、自分の考えを語れやしない。
そうした“潔癖症”=単純化を、今は一大事だから、と彼らは正当化してきたのだが、あれからいったいどれだけの月日が経っていると思っているのか。現実と乖離した言説が結果として誰かを苦しめていることには考えすら及ばず、しれっと善人面して恥じることがない。
選挙結果が自分の思い通りなら「そらみたことか、これが民意だ」、思い通りでなければ「むしろ少数派の声にこそ耳を傾けるべき」。
そんなご都合主義の戯れ言をまたも聞かされることになるのだろうな。
「どうすれば体重を減らすことができるか?」
「痩せればいい」
笑い話にすらならぬトートロジーだが、この程度の幼稚な会話が、大の大人同士で、真顔で交わされている。
だいたい“ハートウォーミング”を自称する作品で心が温まった例しがないのだが、以前見た『キサラギ』という映画(DVD)も、世間一般の“評判”と随分異なる(というかほぼ真逆の)感想を私は持ったのだった。
その後、たまたま宇多丸の映画評に触れ、「よくぞ言ってくれた!」と思ったものだ。創作のモラルについて、ここではとても大事なことを言っている。ホン屋として改めて肝に銘じたい。
居酒屋の政治談義的不毛が何より嫌い。
情緒に訴えるために、議論の前提を都合良く歪めるやつは、そもそもまじめに議論する気がない。
たとえば身内の言葉を無条件に信じる態度を私は否定はしない。
心情は理解するし、それを美徳と呼ぶのもいい。
けれど、そこでの客観的事実はあくまで、彼(あるいは彼女)が「信じている」ということのみであって、そのことは、信じられている身内の言葉の真偽とは、とりあえず関係がない。
大人ならその程度の自己批評性はせめて持っといてもらいたい。
持った上で、あえて大声で激昂してみせ、金八先生的ドラマチックな正論のひとつも吐いとけば、俗情との結託により相手の反論を封じることができる、めでたしめでたし、などと思っているとしたら、大間違いだ。
争いをなくすためには仲良くすればいい、というトートロジーを、平気な顔で言ってのけてしまう大の大人を、バカと言わずに何という?
自分を一方的に「被害者」の立場に置いて、俗情との結託により立場を強固なものにしようとする企てが透けて見えた時点で、そのうすっぺらさに私は一切の共感ができなくなる。
近所で毎年行われる夏祭り。今年もその準備が進んでいるらしい。
がんらい人混みが好きじゃないので、あまり祭りに行くこともないのだけれど、「御神輿」にちょっと興味がある。誰が神輿の上に乗り、誰がどのポジションを担ぐのか。その決定のプロセスを見てみたい。
担ぎ手の肩にかかる物理的な重さも、役割による責任の重さも均一ではないはずだ。中にはほんのアリバイ程度に手を添えている者だっているだろう。
その彼が、たとえば物語の主人公である。
主人公は祭りの後、それを目撃しなかった神輿の門外漢に向かって、神輿の何たるかをしたり顔で語るだろう。
その滑稽さを眺めてみたいという、底意地の悪い作者がいる。
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