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いわゆる「前衛」の保守性に無自覚な態度を「閉じている」と言ってるんだ。
たかだかガキのお年玉程度の経済的リスクを取るつもりもなく、ろくに自己投資すらする気のない人間に、おのれの「表現」なんぞ語る資格はないんだよ。
「言ったところでわからない」という傲慢な態度は避けたいが、しかし「言えば必ず真意が伝わる」というのもさらに傲慢だと思う。
「仕事と家庭とどっちが大事なの!?」という、テレビドラマ的なベタな諍いは、べつにその言葉のとおり二者択一の回答を求めてしている「問い」ではなくて、不当に低く位置づけられた己の優先順位に対する抗議であることくらい、よほどのバカでない限り、誰でもわかる。わかった上であえて「回答」するということは、相手の言葉の真意を捨象するって行為であり、つまり「売られた喧嘩は買うぜ」って態度になるのだよ。
決して高くはない目標を軽々と下回る。
その原因を精神論で片づけるのは意味がない。先の展望が何も見えないからだ。
では具体的にどうするか?
答えは結局「伝統」の中にあった。
「猫町」公演終了。
前回公演時には稽古場で、ほとんど毎日口癖のように言っていた「役の生理/役者の生理」という言葉を、今回は一度も口にしなかった。
理屈っぽくなるし、だいたい芝居のスタイルが大きく違う。
前回は、いわゆる演劇らしさを極力排除することでしか、登場人物のいわくいいがたい微妙な感情の綾を体現し得なかった。そういうミニマリズム的文体でホンが書かれていた。が、今回はむしろベタな演劇らしさ満載。若い人には“斬新”に見えたかもしれない手法も、それなりのオトナが見れば、状況劇場や天井桟敷の影響を指摘するのはたやすい。
だが、演技の基本部分はやはり同じなのだ。
役の生理と役者の生理は分けて考えなければいけない。ことに絶叫系の俳優は両者を混同することでカタルシスを得ようとする(そしてまたそれでよしとされる)傾向にあるが、それは単なる「役者」の感情の“発散”であって、「役」を“演じ”たことにはならないのだ。
この狭い業界で、わざわざ人目につくところに、スタッフに対してよくもまあそういう差別的なエントリを書き込むもんだと呆れ果てる。
売られた喧嘩は買うタチなので、該当箇所にリンクを張ってやっても良いが、わざわざそれも大人げないか。
ともかくそのバカさ加減が、こちらこそ「かつて味わったことのない不快」であるとだけいっておく。
「猫町」初日。
この劇の主題にも関わることなのだけど、「今/ここ」を強く意識した演出で、とにかく「やってみなきゃわからない」ってことが多い。だから想定外の出来事もいろいろ起こるが、そのハプニングをむしろ楽しんでいる。
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