資格
人事を尽くして天命を待つ、というが、翻っていえば、人事も尽くしてない者に天命を待つ資格なんかないってことだ。
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人事を尽くして天命を待つ、というが、翻っていえば、人事も尽くしてない者に天命を待つ資格なんかないってことだ。
最終的には役者は技術じゃない。そんなことは私だって知っている。
けれど稽古場では技術の向上を求めます。
当然だ。両者はまったく矛盾しない。
たとえば額の上にさらさら踊る前髪を描こうと思ったら、作中で強風なんか吹かせちゃダメに決まってる。
プロはけじめとして報酬を受け取らないとダメ、という言い分は、なるほどその通りだろう。
翻って言えば、受け取る報酬に見合うだけの成果が出せないようなら、そんなものはプロではない。
だから、成果を出すため最低限必要なブツは自分で用意するのが当たり前。
成果を出す能力はあるけどグローブを持ってません、球団が支給して下さい、などというプロ野球選手などいないのだ。
権威主義を擁護するつもりなど毛頭ないが、複数の専門家が共通して一致した価値観を否定するなら、それなりの論拠を示せ。自分が理解できないことを根拠に相手を否定してかかり、既視感ありありの批評言語もどきを羅列するその姿は、厚顔無恥を通り越して品性を疑う。
「猫町」はずいぶん肩の力を抜いて書くことができた。
構成にひとひねりはあるが、実験的とまではいえない。むしろ実験的要素を排するという実験。
結果、演劇らしいケレン味に満ちたエンタインメントになったと思う。
ソシュールのいう差異の体系というか、いや、そんな大袈裟な話じゃなく、単なる見積の比較というか。
ともかくこのダメダメな現状を定量化して少し冷静に眺めてみれば、まあ、こんなもんでしょーがねーのか、という悟りの境地。
何故演劇なのか、という問いは、とうの昔に捨ててしまった。
他に何ができるというのか?
しかしなぜ小劇場か、という問いにはときどき立ち返る。芝居を始めたキッカケがアングラだったというのは偶然だが、継続するには意志が要る。
あ、ところで「小劇場」っていうのは、べつに小さい小屋(それもあるが)ってこと(だけ)じゃないんだよ。これ、演劇人以外に正しくニュアンス伝えるのがすげー難しいんだよな。なのでここでは説明しない。べつに私の造語じゃないので言葉の定義は自分で調べて。
「わからない」という意味が、ほんとに「理解できない」のか、あるいは「理解したくもない」という批判なのか、「自分はそんなこと考えもしない」という、保身のための装いなのか。
わざわざ行動経済学を引くまでもなく、ひとが常に合理的な判断に基づき行動しているわけではないことは経験的に知るところだけれど、しかしすでにこれだけの情報が入手可能な環境で、ことに「問題」を熱心に語りたがる者が、頑なまでにバイアスのかかった通俗的なものの見方しかできないというのは、ちょっとした驚きだ。これが「バカの壁」というものか。
センチメンタルな語り口で、もっともらしい通念=紋切り型を口にしていさえすれば、「善良」な市民の一人でいられるというその思考停止ぶりこそが、被災者にさらなる実害を与え苦しめるのだということをイヤというほど学んだ(今も学ばされている)この二年だった。
前回の芝居で「やるな」と言っていたことを、今回の芝居では、むしろ「やれ」と言っている。
当然だ。テキストの要請する方向が異なるのだから。
それでもやはり一貫して「やるな」は、ある。
「猫町」の稽古が始まっている。
早くも荒立ち稽古に入ったが、とてもいい感じ。ほんとうに。とにかく役者が「轍」にはまってないのがいい。
「轍」の比喩は、演劇の場で一般的であるかどうかわからないが、平たくいえば、ヘンなクセだ。それが、妙な“信念”や、“成功体験”によって踏み固められ、するとそこから出ることができない。プライドばかりが肥大して、貧弱なアウトプットしか得られない。
なので轍に嵌まった役者と稽古してても不毛で疲れるばかりだが、幸運なことに今は、毎日の稽古場がとても充実している。
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