短絡的
たとえば「悔しい」という感情を引き出すために稽古場で女優に手を上げる。
許されると思うか?
私は断じて許さない。
それは私が“紳士”だからじゃない。目的の成就が手段を正当化できると思ってる短絡的なバカが心底嫌いだからだ。
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たとえば「悔しい」という感情を引き出すために稽古場で女優に手を上げる。
許されると思うか?
私は断じて許さない。
それは私が“紳士”だからじゃない。目的の成就が手段を正当化できると思ってる短絡的なバカが心底嫌いだからだ。
中学校は強制的に丸坊主だった。
田舎くさくてイヤで仕方なかったが、それよりも、なぜそうせねばならぬのか、合理的な説明がされないことに、ガキながら(ガキ故に)苛立ったものだ。しゃれっ気出すのは高校に入ってからで良い、だとか、昔はもっと厳しかった、だとか、およそ「説明」になっていない。そりゃそうだ。合理的な説明など、できるわけがない。「根拠」と呼べるようなものなど何もありゃしないのだから。
今は、母校の生徒もフツーの頭髪をしているらしいが、制度の切り替わった際、学校がどういう説明したのか聞いてみたかった。
事実を知りたければバイアスのかかっていない情報をせめて自ら選び取る努力をすべきだ。
「バイアスのかかっていない情報」などない、というのはそりゃそうだが、そんな懐疑論は無意味。だったらそもそも「事実」って何? というところから問い直さなければならない。もちろん問い直したっていいのだし、芸術ってそういうものだが、問うているその間にも現実は動いていて、私たちはその現実を生きていかなきゃならないのだ。
上げた拳を下ろせないのか、それともいまだ冷静な判断が下せないほど情報収集・分析能力に劣る愚か者であるのか。
週刊誌レベルの「正義」を、いくら深刻な面持ちで、彫琢した言葉で語ったところで、内容が週刊誌レベルであることに変わりはない。
裏取りのされていない情報を脊髄反射で拡散する「正義感」の愚かさをいい加減学んで欲しい。
組織の長に「おまえが現場に行け!」というのは、子供じみた憤怒の発露だが、仮にそれがベターな選択であると本気で信じているなら、まるで組織というものをわかっていない。
なるほど、吉本隆明の言う共同幻想とはこういうものかと、妙に深刻ぶった芝居のチラシを見て思う。私は劇場に足を運ぶことはないだろう。科学を無視したセンチメンタリズムには断じて与しないと決めているので。
「蛇苺」の山口(百恵)さんは、見目麗しく、他人のつくりあげた自分の“イメージ”を最大限に活用し、その裏で悪事の限りを尽くす。
そんな山口さんの本性に気づいてしまった斉藤くん。山口さんを脅迫して己の肉欲を満たそうとするが、逆に自殺に追い込まれ、犯罪の濡れ衣まで着せられる。
哀れ、斉藤…。
なんら合理性に基づかず、性悪としかいいようのない山口さんの行動が、シュールで思わず笑ってしまう。
が、笑い飛ばす「体力」のない人は、決して読まない方がいい。トラウマになるかもよ。
「SOSボーイ」は、12年間、母親の胎内に立てこもる弟のため(?)に、地獄のような日々を送ることになった家族の話。
これにはさすがに陰惨な気分になった…。
この期に及んで陰謀論に嵌まるバカは、そもそも事実を知ろうという努力をしていない。単純な善悪の二元論で、己は完全な被害者の立場を取り、ワイドショウレベルの通念的な批判を口にしたがるが、いかんせんバカなので、テメエが撒き散らすその嘘八百こそが最大の「加害」であることに、震災から約2年を経てなお、いまだ思い至らない。
http://www3.nhk.or.jp/news/
html/20130119/ t10014917861000.html
「自衛隊法では、海外での紛争や災害などの際、日本人の輸送を行うことが任務として定められているが、現在は飛行機による輸送し かできない」
「陸上での活動となると、危険性が増すほか、武器使用制限をどうするかといった課題 」
当然、自衛隊法を改正すべきだ。
こうした事態を前にしてなお、「輸送するだけなのになぜ武器がいる
情緒的に訴えかける、その語り口の強さで、こちらの意見を変えるなどということをしたくはないし、するつもりもない。変えたかったら内実を伴った論理を持ってこい。
好むと好まざるとに関わらず、同じ船で生まれ、同じ船の乗組員となった元船長が、倉庫から勝手に食料を持ち出して、これまた勝手に感情移入したサメにくれてしまう。いいことした、これぞ「友愛」と、元船長本人は悦に入っているようだが、「友愛」の犠牲にされた乗組員たちが、それを黙って赦すと思うか?
冷静さ、とはまたべつの、残酷なまでの冷たさ。
それと無縁の「いい人」は、芝居の創り手には向いていない。
当然だ。己の表現に向けるべき冷酷さも持ち合わせていないのだから。
http://www.47news.jp/CN/201301/CN2013011601001878.html
尖閣は「係争地」と鳩山氏 中国要人との会談で
【北京共同】中国を訪問中の鳩山由紀夫元首相は16日、賈慶林全国政治協商会議主席や楊潔チ外相ら中国要人と相次いで会談した。鳩山氏は一連の会談で、沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)は中国も領有権を主張しているとして、日本政府の公式見解と異なる「係争地」に当たるとの認識を示した。同氏が記者団に明らかにした。
鳩山氏は会談で尖閣について「係争が今起きているのは事実だ。係争地であると互いに認めることが大事だ」と指摘。尖閣を両国が係争地と認定した上で、係争の「棚上げ」に合意するよう提案した。鳩山氏によると、賈、楊両氏は「基本的に同意する」と回答したという。
根拠はないが確信がある、うすらバカの集合論。
先の選挙結果を陳腐な言葉で大仰に嘆いてみせた者の多くが、鳩山政権誕生時にはこれを喝采をもって迎えただろうと。
人生設計のあるモデルを示す。その点で、学校と生命保険は似てい
罵り合って生きていくのも疲れるので、少なくとも動機に悪意のない者に対してはできるだけ寛容でありたいと思うのだが、それを私の“人間性”のラインから実現するのは到底無理なので、理性によって乗り越えようと思う。「寛容性」は「無関心」と同じ成分でできているので、後者をうまく配合すれば目的は達せられるハズ。
リフレ派/反リフレ派の罵り合い。
どちらの言い分もそれなりにわ
翻って結局、どっちつかずの自分。
その「正しさ」は事後的にしか証明できないし、因果関係が必
まあ
台詞を“大事”に言う、とは、一言一句、ハッキリと、感情込めて発話する、ってことでは、全然ねーから。
細部が物語に奉仕するようなものだけは決して作りたくない。逆だ。物語というのは観客の視線を舞台へと動機づけるいわば“電圧”みたいなもので、そうして目にする舞台上の、今/ここからあふれ出す過剰な細部の総体を“演技”と呼ぶのだ。
たとえば歌謡曲をジャズふうのアレンジで演奏する試みなどが、しばしば軽いノリでされ、それが意外と合うなと思えたり、やはり全然ダメだ、と思ったり。
とくに後者の場合、ジャンルに固有の“何か”を感じる。楽曲が、本来それにふさわしいアレンジを要請している。
戯曲だって同じことだ。
テキストの要請する演出のスタイルというものがある。それを「世界観」と呼んでもいい。
だが、「斬新さ」の名の下にこれを無理やりねじ曲げて作品を台なしにし、それで何事かを成し遂げたような顔をしている演出家がいる。
そこのおまえ、おまえのことだよ!
そんな厚顔無恥な人間が、今日も懲りずに、演劇とは何かを語っている。
ギャンブルは一切やらないのだが、ときどき京王多摩川の競輪場に行く。
赤ペンにスポーツ新聞、昼間から酒飲んでたり、そういうダメダメな雰囲気が好き。
発券所にはコンピュータが導入され、すっかり近代化されてしまっている。マークシートは「共通一次」を彷彿とさせ、どうも「遊び」という気がしない。 それもあって車券は一度も買ったことがない。
興行主ならコスト計算するのはあたりまえ。そこには貨幣に換算できない「調整コスト」も含まれる。
現前性を無条件に肯定し、補強し、保存したいとは思わないが、しかし逆を行くだけでは意味がない。それは結局、同じ地平で立ち位置を変えたに過ぎない。そういう子供っぽい「跳ね返り」にはもはやまったく興味がない。
むしろ現前性がいかにしてそれを獲得するに至ったか。つまり足下のこの「地平」が、どういう成分で構成され、どういう回路を経て、今、キープされているのか。
「大衆」というものを、大衆の中にあって、見極めたいのである。
今年は春と冬に、実験的な舞台を二つ。
「実験的」といっても、あくまで個人的な話で、べつにアバンギャルドなことをするわけではない。制作的には活動を継続させるため、本来の意味でのリストラクチャをしていかなきゃならんし、一方で「継続」が目的化してしまっては本末転倒だと思っている。
漫然と駄作を垂れ流すくらいなら潔く辞めた方がマシだ。
さまざまな現実的制約を創作上のテコとして、新たな方法論の回路を開けるか否か。その意味での「実験」なのだ。
試されている、と感じる。誰に試されてんだか知らねーが。
悪いと思っていないなら、そもそも謝罪などしなければいいのである。謝っておいてその態度を改めない、こんなにも相手をバカにした、失礼な話があるか。
ああ、そうか。私が鳩山由紀夫を許せないのは、その政治的無能以前に、「私は愚かな総理かも知れません」発言に象徴される、薄汚いナルシシズムのためらしい。
http://wpb.shueisha.co.jp/2013/01/02/16396/
日本にとって最大の敵は日本国内の左巻き、及び彼らの美辞麗句に追随して「いい人」でありたいうすらバカ=うすら左翼の存在だろう。
「最近の若者は」という非難がましい世代論は、太古の昔からずーっとあるけれど、個人的に、そういう実感を持ったことが一度もない。むしろ昔の若者つまり私と同世代の人間の忘れっぽさに呆れるばかりだ。
見て見ぬふり、というフレーズは、ガキの道徳的には「悪」のイメ
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