旗日
田舎の実家で旗日に日の丸を揚げていたのは、いつ頃までだったろう。明確なキッカケがあったわけでもなく、むろん誰に強制されたわけでもなく、慣習は廃れていった。その意味の解釈は、政治的立場によってさまざまだろうが、いずれにせよすっかり「昭和」の風景だ。
「旗日」なんていい方も、若い世代にはもう通用しないのかもしれないね。
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結果が思い通りにならないと、やれ他人の思考力が足らないだとか、想像力が貧困だとか。自身は、どんなリッパな考えをお持ちなのかしらないが、仮にこれが思い通りの結果であったなら、これこそが「民意」という解釈になるのだろう。ばかばかしい。なんたるご都合主義か。
多数決の「暴力」というものがあって、誰もがある局面では被害者だし、同時にべつの局面では加害者なのだ。当然。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121216/elc12121603070069-n1.htm
京都大学教授・佐伯啓思 民主主義への誤解
このコラムの掲載は16日の朝、すなわち総選挙の投開票日である。今回の選挙は、とりわけ重要なものだと思うが、それはこの選挙を、これまでの流れに対してピリオドをうつものにすべきだと強く感じるからだ。「これまでの流れ」とは、それこそ橋下徹氏(大阪市長)のいう「ふわっとした民意」によって政治が浮遊し、また、政治がその「ふわっとした民意」を当てにすることでたえず政局へと流れてゆく、というこの数年間のわが国を覆う政治的風潮のことである。
『橋下徹氏(大阪市長)のいう「ふわっとした民意」によって政治が浮遊し、また、政治がその「ふわっとした民意」を当てにすることでたえず政局へと流れてゆく、というこの数年間のわが国を覆う政治的風潮』
この「政治的風潮」に荷担する人々を、私は「うすらバカ」をもじって「うすら左翼/うすら右翼」という造語で蔑んできた。
2012/12/16、予想通りの選挙結果に、うすら左翼が予想通りの反応。
ヤン・シュヴァンクマイエル監督作品。
チェコの民話を下敷きに創られたとのこと。面白いのだが、意外なほどまっとうな劇作。シュールリアリズムを「技法」としてすっかり自家薬籠中のものとし、「活用」しちゃってるあたりが、物足りないといえば、いえるかも。破綻がないというか…。
しかし幕切れのかっこよさににはシビれた。
ミニマリズムの代表格であるレイモンド・カーヴァーの名は、村上春樹の翻訳により、たちまち広く知れ渡った、という実感がある。ズバリ、『ノルウェイの森』世代の私。やはり村上春樹経由でカーヴァーを知ったクチ。良くも悪くも青春時代にハルキの影響を受けないわけにはいかなかった。やれやれ。
当時私は、学生演劇で“アングラ”しながら、読んでる小説はもっぱらこのミニマリズムと呼ばれるものだった。流行ったんだよ、すごく。意外と私みたいな演劇人て多いのではないか? 少なくとも同世代であれば、決して私は少数派ではなかったはずだ。
だからその後の、いわゆる「静かな演劇」ブームは、80年代に大学生だった演劇人の読書体験により、さしたる抵抗感もなく広く一般化したのだ、というのが私の説なのだが、どうか?
「戦後最高戯曲」と評されるわりには、結構容易に指摘しうる瑕も多々見られる。たとえば二幕冒頭の姉妹の出とか、いいのかよ、こんなヤッツケで? と思ってしまう。だが、それらをさっ引いて余りある面白さってことなんだろう。たぶん。
何箇所か声に出して読んでみた。ダイアローグを支える構造とか、改めていろいろ考えさせられたこともあるが、まあ、いいや。理屈っぽくなるし。
こう書くと、なんと独りよがりな、と言われそうだが、しかしたとえばあの三島でさえ、自分の作品をはじめて他人に読ませるときには足が震えていたという証言があるほど、モノカキというものは孤独で不安なものだから、どんな他人の意見にも、ついつい耳を傾けてしまいがちなのだ。
そうして、せっかくうまく書けてるところを、作家自ら「改悪」しちゃうケースを、何度か目の当たりにした。
むろん有意なアドバイスというのもあるわけだが、それとそうでないものとを見極めるには、結局書き手自身が方法論に自覚的であること、その部分を鍛え上げるほかない、と思うわけ。
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