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2012年12月

2012年12月24日 (月)

旗日

駅まで徒歩10分、途中目にした国旗は、この家で掲げるこれひとつだけだった。マンションでは皆無。我が家も含めて。
田舎の実家で旗日に日の丸を揚げていたのは、いつ頃までだったろう。明確なキッカケがあったわけでもなく、むろん誰に強制されたわけでもなく、慣習は廃れていった。その意味の解釈は、政治的立場によってさまざまだろうが、いずれにせよすっかり「昭和」の風景だ。
「旗日」なんていい方も、若い世代にはもう通用しないのかもしれないね。
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2012年12月21日 (金)

時間がない

来年の企画について、できれば年内に話を通しておきたい人がいるのだが、そのためにはまず、ざっくりした企画書を作成せねばならん。
催し物の模様を頭に思い描く。わくわくするが、はっきりしてるのは、金がぜんぜんないってこと。しかしやるとなったら工夫を凝らして付加価値の高いものにしたい。となれば、ホンを書くにも時間が必要。私はいつも稽古初日にホンがあがっているので、書くのが早いと思われているフシがあるが、そんなことはまったくなくて、むしろ遅いという自覚があるからこそ、スタートを早くしているだけだ。
逆算すると、意外と時間がない。

2012年12月17日 (月)

ご都合主義

結果が思い通りにならないと、やれ他人の思考力が足らないだとか、想像力が貧困だとか。自身は、どんなリッパな考えをお持ちなのかしらないが、仮にこれが思い通りの結果であったなら、これこそが「民意」という解釈になるのだろう。ばかばかしい。なんたるご都合主義か。

多数決

多数決の「暴力」というものがあって、誰もがある局面では被害者だし、同時にべつの局面では加害者なのだ。当然。

2012年12月16日 (日)

ふわっとした民意

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121216/elc12121603070069-n1.htm

京都大学教授・佐伯啓思 民主主義への誤解
このコラムの掲載は16日の朝、すなわち総選挙の投開票日である。今回の選挙は、とりわけ重要なものだと思うが、それはこの選挙を、これまでの流れに対してピリオドをうつものにすべきだと強く感じるからだ。「これまでの流れ」とは、それこそ橋下徹氏(大阪市長)のいう「ふわっとした民意」によって政治が浮遊し、また、政治がその「ふわっとした民意」を当てにすることでたえず政局へと流れてゆく、というこの数年間のわが国を覆う政治的風潮のことである。

『橋下徹氏(大阪市長)のいう「ふわっとした民意」によって政治が浮遊し、また、政治がその「ふわっとした民意」を当てにすることでたえず政局へと流れてゆく、というこの数年間のわが国を覆う政治的風潮』

この「政治的風潮」に荷担する人々を、私は「うすらバカ」をもじって「うすら左翼/うすら右翼」という造語で蔑んできた。

2012/12/16、予想通りの選挙結果に、うすら左翼が予想通りの反応。

2012年12月14日 (金)

オテサーネク

ヤン・シュヴァンクマイエル監督作品。
チェコの民話を下敷きに創られたとのこと。面白いのだが、意外なほどまっとうな劇作。シュールリアリズムを「技法」としてすっかり自家薬籠中のものとし、「活用」しちゃってるあたりが、物足りないといえば、いえるかも。破綻がないというか…。
しかし幕切れのかっこよさににはシビれた。

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2012年12月12日 (水)

VEIN

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渡邊世紀監督作品。

登場人物は男(百鬼どんどろ・岡本芳一)と少女(人形)のみ。
台詞は一切語られない。
物語らしい物語はないし、決して「娯楽」として万人に受け入れられるものではないだろう。
しかしそんなことはハナからわかりきったこと。

沈黙劇で知られる劇作家の太田省吾はかつて岸田戯曲賞の選評でこんな言葉を述べている。

舞台という空間はどのような空間なのだろう。たとえば、長靴が一足、舞台の上に置かれているとする。その長靴は、たとえば私の家の玄関の片隅に置かれていたものとは明らかにちがったものである。
〈詩的連関〉という言葉がある。詩の世界では、日常のものごとの連関と異なる連関が可能であり、そこに詩の世界のわたしたちにとっての意味や魅力が生じるのだが、〈劇的連関〉というものもあるのではないだろうか。
舞台の上の長靴は、〈劇的連関〉の中にあり、そこで現実の、たとえば私の家の玄関の片隅にある長靴とはちがったものとなりうる。それは、登場人物についても言えることではないか。

「VAIN-静脈-」に登場する男と女は、確実に〈劇的連関〉の中にある。
そして渡邊世紀監督は、その世界観を崩すことなく、二人の関係性を〈映画的連関〉に捉え直すことに成功した。

パンフレットに岡本芳一の言葉が記されてある。

人形は“モノ”であり、観る人の“心”が入る《器》である。だから、人形に念(おもい)は込めない。

ゆえにこの深く静かな感動は実にパーソナルなものである。誰とでも、おいそれと交換したり共有できる種類のものではない。
そしてそれは作り手に対しても同様だ。

互いを想いながらも決して救い合うことができない男と少女。「それは自分と人形の関係性も同じこと。だから『VEIN』は冷たく終わりたい。

そうした作り手の意思を超えて、傷ついた男女の行く雪原の向こうに、我々は安易なヒューマニズムとは別のところで、ある種の“希望”すら見いだすことができる。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=EasZO-4PMPI

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選

ミニマリズムの代表格であるレイモンド・カーヴァーの名は、村上春樹の翻訳により、たちまち広く知れ渡った、という実感がある。ズバリ、『ノルウェイの森』世代の私。やはり村上春樹経由でカーヴァーを知ったクチ。良くも悪くも青春時代にハルキの影響を受けないわけにはいかなかった。やれやれ。
当時私は、学生演劇で“アングラ”しながら、読んでる小説はもっぱらこのミニマリズムと呼ばれるものだった。流行ったんだよ、すごく。意外と私みたいな演劇人て多いのではないか? 少なくとも同世代であれば、決して私は少数派ではなかったはずだ。
だからその後の、いわゆる「静かな演劇」ブームは、80年代に大学生だった演劇人の読書体験により、さしたる抵抗感もなく広く一般化したのだ、というのが私の説なのだが、どうか?

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2012年12月11日 (火)

サド侯爵夫人

「戦後最高戯曲」と評されるわりには、結構容易に指摘しうる瑕も多々見られる。たとえば二幕冒頭の姉妹の出とか、いいのかよ、こんなヤッツケで? と思ってしまう。だが、それらをさっ引いて余りある面白さってことなんだろう。たぶん。
何箇所か声に出して読んでみた。ダイアローグを支える構造とか、改めていろいろ考えさせられたこともあるが、まあ、いいや。理屈っぽくなるし。

2012年12月 6日 (木)

人の意見を聞かない勇気!

こう書くと、なんと独りよがりな、と言われそうだが、しかしたとえばあの三島でさえ、自分の作品をはじめて他人に読ませるときには足が震えていたという証言があるほど、モノカキというものは孤独で不安なものだから、どんな他人の意見にも、ついつい耳を傾けてしまいがちなのだ。
そうして、せっかくうまく書けてるところを、作家自ら「改悪」しちゃうケースを、何度か目の当たりにした。
むろん有意なアドバイスというのもあるわけだが、それとそうでないものとを見極めるには、結局書き手自身が方法論に自覚的であること、その部分を鍛え上げるほかない、と思うわけ。

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