民主主義?

 
リンク先の中日新聞で高畑勲がいっている。
『民主主義は日本で成熟したでしょうか。空気を読んで流れに乗ってしまいやすい点は変わっていないのではないですか。』
 
それはそのとおりだろう。ワイドショウ的な付和雷同。イワシの群れに個人の思考はない。ギョーカイ内で高畑勲的な言説がステレオタイプとなっているのもそういう力学によるものだ。
イワシの群れの行動は制御不能。どういう理由でどっちに進むのか誰にも説明できない。ただ意味不明な「結果」だけが残るのである。それが危険であるという指摘を私はずっとしている。
   
ルソーがいうところの全体意思。これを定量的に正当化する手続きが民主主義であると私は考える。殴り合いでも声のでかさでもなく「個人」の意思を表明する手段は今のところ選挙しかない。「清き一票」の「清さ」は、そのプロセスに不正がないことで担保される。投票者の動機の純粋性のことではない。
  
しかし高畑はこういうのである。
『結局投票でしか意思表示ができないし政権に反対する勉強会やデモに参加する人の輪がどんどん広がっているとは感じにくい。』
 
いったいこの人は「民主主義」を何だと思っているのだろうか?
翻って言えば、こうした動機の純粋性を満足させる「運動」こそが民主主義であると高畑的な人らは信じて疑わないのである。
その信念を成立させるためには、前提として『国民対政府という構図で政府に全ての悪をおしつける』児童ブンガクが必要なのだ。
 
「清く正しく美しく」ありたい(そのように周囲の人間に承認されたい)と願う芸術界隈の人間にとって、己の思考の怠慢を動機の純粋性(自己申告!)で補えるこの善悪二項対立の世界観はじつに都合がいい。
通俗的な憂国のポーズでアベが悪いとか言っておけばいいのだ。
私に言わせれば卑怯者である。芸術は思考停止を正当化する装置ではない。

反体制

古舘伊知郎的「反体制」イワシの群れ。
まるで高校生クイズの○×問題。
政府が○とこたえたらイワシの群れは×へ、逆に×とこたえたら○へ、「みんな」でぞろぞろ移動する。
群れの「こたえ」は常に体制側に規定され、オートマチックに決まっていく。だからそれは政府の決定を盲信するのと全く同じこと。
そんな思考の怠慢を、ステレオタイプな「反骨精神」の意匠で正当化するわけだ。

新橋の居酒屋

忘れっぽいのに執念深く、就活(?)時に感じた違和を覚えている。
バブルの終わり。空前の売り手市場。当時の学生に人気だったのはマスコミと広告代理店で、「識者」によってこういうことが真顔で言われた。
「科学技術はもう飽和状態。電機メーカーは横並びで、これからはイメージ戦略で差別化するしかない」
んなわけあるか、と私は思っていた。
 
技術の進歩はオートマチックに維持されるという「神話」。土地の値段は下がらないというのと一緒だ。
これって今、民進党なんかがいう「成長」を否定するような政策とも通底していると私は思う。つまり、現状程度の経済は、ほっといても維持されるという前提。
優雅に泳いでいるように見える水鳥が水面下で足をバタバタさせていることなど想像もしないのだ。
 
政治って「正解」が演繹的に求められるもんじゃない。だから「結果責任」といわれるわけだ。
じゃあ「結果」って何か? 
国民にとって以前よりも良くなったか、悪くなったか。つまり過去との比較における差異である。
しかし世の中には私以上に忘れっぽい人が多くいるらしく、差異を求めることができない。
 
デフレに逆戻りというのはじゅうぶんあり得る。フェイクニュースを流す多くのメディアが望むように安倍政権が倒れれば、それはあっというまに実現するだろう。
そうすればまた就職氷河期がやってくる。雇用は悪化し、自殺者も増える。
そのときはまた「政治が悪い」と誰かを悪者にして済ませるか。
日本全国新橋の居酒屋である。

会話劇

①「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売られていたので手に取ったが、ペラペラだったので買うのをやめた。」
フツーに書くとこんな感じ。

 
誤読されないようにと思えば、こんなふうに書くこともできる。
②「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売られていたので私はそれを手に取ったが、ペラペラだったため、買うのをやめた。」
せいぜいここまでではないか。
 
ガキの作文バージョン。
③「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売っていたので、買おうと思い、手に取ったが、ペラペラだったので買うのをやめた。」

 
もはやシュールリアリスム。
④「私はユニクロで千円ちょっとの安値でジーパンが売っていたが、手に取ったがペラペラだったので買おうと思ったが買うのをやめた。」
  
で、①②の文は「買おうと思った」という主体の心理が省筆されているわけです。「買うのをやめた」でじゅうぶんという判断。③は説明過剰なんです。④は論外として、③に比べて①②は実はテクニカルなの。
 
現代口語による会話劇というのは、単に日常会話を書き写しているんじゃない。書き手が意識する/しないにかかわらず、こういう思考を経て「フツー」を割り出し、①を選択しているの。それを「技術」というの。
さらに、話者の設定が仮に中学生だったとしたら、そのステレオタイプを踏まえて「ユニクロで、ジーパンが、千円ちょっとの安い値段で売っていたから手に取ったんだけど、ペラペラだったんで買うのをよした。」くらいに崩してやる。

ひたすらに倒閣運動にいそしむメディアの自殺行為

『違法でも何でもない話に対し、明確な証拠も事実関係も示さないまま「怪しい」「疑問は消えない」「悪いことをしているに違いない」と追及し続け、針小棒大に取り上げる。』
それが「魔女裁判」に他ならないということが、日頃「民主主義」の大切さをいう朝日や毎日の高学歴記者たちにはなんでわからないのかがわからない。
  
イデオロギーの話なんかしていない。その論点すら理解できぬようで、勝手に作った「アベの仲間/アベの敵」という二項対立に基づき、後者こそが「正義」であるというお粗末な思考態度。それは、新聞社の「中の人」のツイートなどからも見て取れ、なるほど書いてる人間がこれならば、そりゃあ、ああいう紙面にもなるよと絶望的な気分になる。
  
構造的洗脳という言葉を思いついた。
「アベ政治って許せないよね」
「ますます疑惑が深まった」
「丁寧な説明が必要だわ」
この環境に置かれた者は周囲にに嫌われたくない一心で「だよねー」ってなるんじゃないか。
  
臆病者の処世術。そのうちそれが「処世術」であったことすら忘れてしまう。
私はこれを物欲しげな芸術家界隈の紋切り型な言説にヒシヒシと感じているのだが、ジャーナリストも一緒ではないか? 
そこには「個」というものがない。イワシの群れの「細胞」である。

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