2017年1月 2日 (月)

ジェットコースター

ジェットコースターが恐くない。
いや、恐いことは恐いのだが、落下の恐怖は所詮、安全性に裏打ちされた“スリル”でしかない。むろん事故の可能性がないわけじゃないけれど、万が一そうなったら、じたばたしたってはじまらない。
それゆえ、なおさら恐怖なのだ、と言う人もいるだろうが、私はむしろ、自分がそのジェットコースターの整備責任者の立場だったりした場合を想像すると、心臓の縮み上がる思いがする。

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2016年12月31日 (土)

厚顔無恥

(社説)慰安婦合意 後戻りさせないために
かつて日本軍将兵たちの性の相手を強いられた元慰安婦らの気持ちをどうやって癒やすか。日韓両政府がこの問題で政治的に合意して1年が過ぎた。
合意に盛り込まれた元慰安婦を支援する韓国の財団が今夏に立ち上がり、日本政府が送った10億円をもとに現金を支給する事業が始まっている。
1年前に46人が生存していた元慰安婦のうち、これまで7割以上にあたる34人が受け取りの意思を明らかにしたという。
傷つけられた名誉や尊厳が、70年後に受け取った金銭によって完全に癒やされることはあるまい。だが、いまできる限りを尽くそうとする意思が、元慰安婦らに少しでも受け入れられたのなら、政治合意には意味があったと言えるだろう。
着実に歩みを進めてきた事業を、日韓両政府は今後も協力して後押ししてほしい。
合意では、慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決」することが確認された。
持ちつ持たれつの両国関係はいまや、多くの分野に広がっている。慰安婦問題では互いに一定の譲歩をしつつ、一層連携を強めていこうとの思いが、合意には込められた。
後戻りさせないためには不断の努力が欠かせない。なのに、合意の精神に逆行するような言動が双方で出るのは残念だ。
朴槿恵(パククネ)大統領の進退問題に揺れる韓国では、野党勢力が日本との再交渉などを求めている。
次期大統領選を意識し、合意を決断した朴政権を批判するための発言との指摘があるが、歴史問題を政争の具として使おうというのであれば、無責任な政治と言わざるをえない。
日韓両政府が今後取り組むべきは、元慰安婦らに寄り添いつつ、不幸な歴史を教訓として、永遠の不戦の誓いなど普遍的な問題に昇華させ、人権の向上に努めることではないのか。
日本政府や自民党の一部には財団に資金を出した時点で日本側は役割を終えた、との意見があるが、これも大きな誤りだ。
お金の受け取りを拒む元慰安婦らは、安倍首相をはじめ、日本政府が真に謝罪していないとして反発を強めている。
ソウルの日本大使館前に立つ少女像の移転は、韓国政局の不安定化でさらに難しくなったとみられている。釜山でも、市民団体らが日本総領事館前に少女像を設置しようとして混乱している。
この問題が象徴するように、日韓の心が通い合わないと根本的な解決は図れないことを、双方が改めて認識すべきである。
この厚顔無恥。なるほど民進党と親和性が高いはずだよ。
「後戻りさせないためには不断の努力が欠かせない。なのに、合意の精神に逆行するような言動が双方で出るのは残念だ。」と朝日新聞は書く。
この新聞社は「相対化」ってことがまるでわかっていない。足して二で割り、正義ヅラして高みから「喧嘩両成敗」を言い渡せば済むと思っている。馬鹿め。
何かといえば「双方が」「寄り添い」「残念だ」。「S」を押したら「双方」、「Y」で「寄り添う」、「Z」で「残念」と単語登録されてるんじゃないか。少しは頭を使って物を書いたらどうか。

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2016年12月25日 (日)

太田省吾の世界

DVD、disc4枚。『小町風伝』『水の駅』『更地』『砂の駅』『エレメント』『聞こえる、あなた?―fuga#3』と特典映像を収録。

観るたびに発見があり、面白い。たとえばタルコフスキーの映画を観るような、あるいはロブ=グリエの小説を読むような。うっかりすると心地よく寝てしまう系の芝居ではあるけれども、夢と舞台が溶け合うのも、それはそれで悪くない。

特典映像のインタビューの中で、コクトーがサティの音楽を「タコじゃない音楽」と評した話が出てくる。それまでの音楽というのは、タコの足で観客を絡め取るようなものであったが、サティの場合はそれと違う、という。
要するにアンチロマン的傾向の指摘だろう。太田省吾の演劇もその意味で「タコじゃない=非タコ」であるというインタビュアーの指摘はまったくその通りだ。しかし太田は、同じく「非タコ」的傾向を持つ「静かな演劇」(という呼称も、もはや死語だが)を、自身の作風との共通性を認めながらも批判的に語る。つまり、日常性の枠組みから「跳べない」という、ミニマリズム的限界に対する批判である。

しかしその「限界」を超えるべく、太田以降の多くの劇作家により、さまざまな方法が試され、それなりに成果を上げてきた。少なくとも私はそう思っている。たとえばマジックリアリズム的手法の導入や、アングラとの接合、等々。90年代に若い演劇人によってやたらやられた日常のスケッチみたいな作風は、今となってはむしろ少数派だ。

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ノルマ

昨年の公演では卓袱台の購入に3000円の予算を計上していたのだが、拾い物で済ませ、その分を0円に修正した。
この乞食的「節約」を60回繰り返せば、やっと黒字の予算が組めた。 宣伝美術はもとより、舞台美術、音響オペまで主宰自らやり、脚本料、演出料をともに0円で計上したうえでだ。しかも予算はあくまで予算なので、実績がどう転ぶかは蓋を開けてみるまでわからない。チケットはほとんどが「当日精算」。公演当日、台風なんかにこられた日にはキャンセル続出で、もう完全にアウトだ。体験済み。お天気は大事。
 
そうした諸々のリスクヘッジとして、かつては多くの小劇場系の劇団ではチケットノルマという制度が採用されてきた。相当名のある団体でも、そう。
しかしプロデュース形式の公演が一般化し、俳優の流動化が進むと、この制度は成立しにくくなってくる。なぜなら団体としての共同幻想が、ない。そういう状態で、「ノルマ」が成立するのは、素人が舞台に“立たせてもらう”ケースに限られてくる。経済的リスクの共同分担ではなくて、「参加料」になってしまうのだ。

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2016年12月24日 (土)

取材対象

たとえば車の通らない深夜の交差点で、歩行者が信号無視してささっと道を渡るのを、私は声を荒らげ咎めるつもりはない。けれど、たまたま警察官が居合わせたなら、そりゃあ怒られても仕方なかろうと思う。
怒られたのが当の私だったら?
「いちいちうるせーな!」くらいは思うだろう。でも、それはただの身勝手な「感情」。それで行為を正当化できるもんじゃない。そんなことはわかりきってる。
にもかかわらず、やはりなんとか正当化したい。この俗な心の動きは、劇作家の「取材対象」。

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